プロレスリングZERO-ONE崩壊、闘病 - 最期
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「橋本真也」の記事における「プロレスリングZERO-ONE崩壊、闘病 - 最期」の解説
橋本は2004年8月31日、保持していたNWAインターコンチネンタルタッグ選手権試合(パートナーは藤原喜明)の防衛戦を岩手県営体育館にて大谷晋二郎&大森隆男組を相手に行い、試合に敗れて王座を陥落する。この試合を最後に故障などがあって長期欠場に入るが、この後に団体の経営方針等、諸問題の積み重ねから団体内部との確執が生まれ、11月25日にZERO-ONE崩壊を宣言し、負債は全て橋本が自ら被ることで決着がついた。 1人でフリーの道を歩むことなった橋本は長い間治療せず放置していた右肩を手術し、リハビリをしながらリングへの復帰を目指していた。ところが2005年(平成17年)7月11日8時頃、橋本は横浜市内の滞在先において脳幹出血を発症し救急搬送されたが、10時36分に搬送された横浜市立大学附属市民総合医療センターで死亡が確認された。40歳没。睡眠時無呼吸症候群も遠因であったと推測されている。 7月16日に行われた橋本の葬儀には、武藤・蝶野・小川ら団体の垣根を越えて大勢のレスラー、各界著名人、一般ファン等1万人以上が参列した。特に闘魂三銃士の絆を持つ武藤と蝶野が受けた衝撃は大きく、武藤が葬儀場の階段に座り込んだまま立ち上がれなくなったり、蝶野が人目をはばからず涙に暮れるなどした。友人でもあるKBCアナウンサーの高島宗一郎(当時、現福岡市長)の涙声の絶叫に続き、出棺時に橋本の入場曲である『爆勝宣言』が流され、参列者から投げられた数千本もの赤い紙テープと「ハッシモト」コールの大声援に包まれて送り出され、橋本の遺体は久保山斎場で火葬された。また旧ZERO-ONEで橋本と苦楽を共にした大谷も棺桶を担ぐ役から外されていたことを無念に感じ、葬儀場の出入り口付近で悔しさを噛み殺していたという。戒名は「天武真優居士(てんぶしんゆうこじ)」であった。 テレビ朝日のバラエティ番組である『ロンドンハーツ』(2005年7月19日放送)が、橋本の生涯最後のテレビ番組出演だった。(後述のエピソードを参照。) 2006年(平成18年)『力道山』(日韓合同制作)が日本で上映された。橋本は生前、東浪役で出演していてこれが橋本の遺作となった。 2008年(平成20年)3月2日、橋本の功績を称え、2代目IWGPヘビー級ベルトが中邑真輔から橋本家に贈呈された。 2011年(平成23年)7月11日、七回忌という節目を機に公式の七回忌追悼オリジナル写真集が発売された。『永遠の破壊王』 2015年(平成27年)7月13日、十回忌という節目で新日本プロレス主催で後楽園ホールで『橋本真也復活祭』を開催、所縁のレスラーが集結した。メインイベントでは橋本の息子の橋本大地と永田のシングルマッチが組まれた。
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