ブレーキと連結器
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 01:45 UTC 版)
当初の鉄道にはまともなブレーキ装置はなく、編成中に連結された緩急車で、人力でブレーキを掛ける程度であった。これは高速化の障害ともなり、たびたび大事故を引き起こしていた。 動力を用いたブレーキの最初は、スチーブンソンが1833年に開発した蒸気ブレーキであった。ブレーキシリンダーにボイラーから蒸気を送り込んで動作させるものであったが、ブレーキ力を制御するのが難しく、編成全体にブレーキ力を効かせることは困難で、機関車用のブレーキとしてのみ用いられた。さらにシリンダーからの排気管を塞ぐことによりブレーキを掛ける、内燃機関における排気ブレーキに相当する技術も開発されたが、シリンダーが高温になりすぎるなどの問題があった。 また、進行中に弁装置を後進側に切り替えることで、蒸気の力をブレーキ方向に働かせる反圧ブレーキという方法も用いられた。これは弁装置や車輪を焼きつかせるなどの問題があったが、真空ブレーキが開発されるまでは様々な工夫が施されながら用いられた。 より本格的なブレーキとしてノース・イースタン鉄道のJ・R・スミスが真空ブレーキを1874年に開発している。真空ポンプで真空を作り出し、これと大気圧の差でブレーキシリンダーを動作させる仕組みで、列車全体にブレーキを掛ける貫通ブレーキが実用できるようになった。ブレーキ力は大きく向上したが、当初はブレーキ管が破損すると全くブレーキが掛けられなくなる致命的な欠陥があり、1878年にジェームズ・グレーシャムによりブレーキ管に空気が入ってきた時にブレーキが掛かるようにする自動真空ブレーキが開発されて解決された。これはかなり広範囲で使用されるブレーキとなった。 アメリカのジョージ・ウェスティングハウスは、1869年に空気圧によってブレーキを掛ける空気ブレーキを発明した。これはまだ初期の真空ブレーキと同じく、ブレーキ管が外れると全くブレーキが効かなくなる方式のものであったが、1872年にブレーキ管から空気が抜けた時にブレーキが掛かるようにした自動空気ブレーキの特許を取得してこの問題を解決した。真空ブレーキでは大気圧との差の最大1気圧でしかブレーキが掛けられないが、自動空気ブレーキはより高い圧力を掛けることで大きなブレーキ力が得られ、装置も小型化することができるという特徴があった。 連結器についても、当初はねじ式連結器が用いられており、連結作業に際して連結手が車両の間で作業をしなければならず、機関車がオーバーランして連結手が轢かれてしまったり、連結器に手を挟まれたりといった事故が絶えなかった。また連結器の強度にも制限があり列車の長大編成化に制約となっていた。アメリカのイーライ・ジャニーは、連結器同士がぶつかると自動的に連結され、また解放てこを操作するだけで切り離すこともできる、自動連結器を開発して1873年に特許を取得した。 これらの画期的な発明も、すべての車両に一度に導入しなければ効力がなく、導入にとても費用が掛かるということから当初は全く普及しなかった。1893年になって鉄道安全装置法によってジャニー自動連結器とウェスティングハウス自動空気ブレーキの採用が義務付けられ、1900年までにアメリカで運行されるすべての列車に自動連結器と自動空気ブレーキが用いられるようになり、安全性の向上に大きな効果を発揮した。これは、アメリカの鉄道が現代のような巨大なシステムに発展する基礎ともなっている。 自動連結器と自動空気ブレーキの組み合わせは他の国にも波及した。例えば、日本では自動連結器への交換が1925年7月17日(本州)、7月20日(九州)に一斉に行われた。また自動空気ブレーキも1930年からすべての列車で用いられるようになっている。 一方で、ヨーロッパでは自動空気ブレーキは採用されたものの、各国を結ぶ国際列車が複雑に運行され、国家間の調整が必要となる問題があって、自動連結器は2008年現在まで採用されておらず、当初からのねじ式連結器が用いられ続けている。またブレーキについても、真空ブレーキに拘ったイギリスは自動空気ブレーキへの移行が第二次世界大戦後に遅れ、南アフリカやインド、スリランカのように現代に至るまで真空ブレーキを用い続けている国もある。
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