ブッカー・T・ワシントンとアトランタの妥協
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「W・E・B・デュボイス」の記事における「ブッカー・T・ワシントンとアトランタの妥協」の解説
20世紀の最初の10年間で、デュボイスは黒人の代弁者としてブッカー・T・ワシントンに次ぐ存在として浮上した。ワシントンはアラバマ州のタスキーギ研究所の所長であり、アフリカ系アメリカ人と白人のコミュニティに大きな影響を与えていた。1895年にワシントンがアトランタで行った演説は、リコンストラクション後の諸州の政府を支配していた南部の白人指導者と結ばれた口頭の取引としてアトランタの妥協(英語版)と呼ばれることになった。この合意は本質的に、大半が農村部のコミュニティに暮らす南部の黒人たちが当時の差別、人種隔離、権利の剥奪(英語版)、労働組合によって組織化されていない雇用体制に従わざるを得ない状況を作り出したが、南部の白人たちは黒人たちの基礎教育、いくらかの経済的機会、法制度下における正義を認め、また白人たちが南部の企業に投資し黒人の教育慈善団体に資金提供を行うことになっていた。 当初ワシントンのAtlanta Exposition Speechに祝辞を送ったものの、デュボイスは後に、アーチボルト・H・グリームケ(英語版)、ケリー・ミラー(英語版)、ジェームズ・ウェルドン・ジョンソン(英語版)、ポール・ローレンス・ダンバー(英語版)のような他の多くのアフリカ系アメリカ人と共にワシントンの計画に反対するようになった。彼らは後にデュボイスが「The Talented Tenth(英語版)(才能ある十分の一)」と呼ぶことになる教育を受けた黒人階級を代表する人々である。デュボイスはアフリカ系アメリカ人はワシントンによるアトランタの妥協の隔離と差別に対して受動的に従うよりも、平等な権利とより良い機会のために戦うべきであると感じていた。 デュボイスは、1899年にアトランタ近郊で発生したサム・ホース(英語版)のリンチを機に、大規模な行動を起こす意志を強固にした。ホースは2,000人の白人群衆によって拷問され、火にかけられ、吊るされた。新聞編集者のジョエル・チャンドラー・ハリスとリンチについての議論に向かうためアトランタを歩いていた時、デュボイスはホースの焼け焦げた手が店頭に展示されている場に出くわした。この一件にデュボイスは愕然とし、「落ち着いていること、冷静でいること、第三者の科学者でいることができようか。黒人たち(Negroes)がリンチされ、殺され、飢えている時に」と決意を固めた。デュボイスは「治療法は単に人々に真実を伝えることではない。彼らに真実に基づいて行動するよう促すことだ」と認識した。 1901年、デュボイスはワシントンの自伝『Up from Slavery(英語版)(奴隷より立ち上がりて)』の書評を書き、後にそれを加筆して『The Souls of Black Folk(英語版)』にエッセイ「Of Mr. Booker T. Washington and Others」として掲載し多くの人々に向けて出版した。デュボイスは後年にこれらのエッセイでワシントンを批判したことを後悔した。この2人の指導者の対照的な違いの1つは教育への取り組みであった。ワシントンはアフリカ系アメリカ人学校は農業・機械操作技術のような南部の黒人たちが最も多く住んでいる農村地域での機会に備えるべく産業教育分野に重きを置く必要があると考えていた。デュボイスは黒人学校はリベラルアーツと学問的カリキュラム(古典・芸術・人文学を含む)に重心を置くべきだと考えた。これはリベラルアーツがリーダーシップを持つエリートを育成する必要のあるものであったからである。しかしながら、社会学者エドワード・フランクリン・フレイジャー(英語版)と経済学者ガーナー・マーダルおよびトーマス・ソウェルが主張しているように、このような教育に関する見解の不一致はワシントンとデュボイスの違いとしてはささいな問題であった。二人とも相手が主張する教育方法の重要性を認めていた。ソウェルはまた、ワシントンとデュボイスの間には確かに見解の不一致があったが、よく言われるような敵対関係は、この二人の指導者の支持者の間に生じたものであり、当事者間に生じたものではないと主張している。デュボイス自身も1965年11月に出版された『The Atlantic』のインタビューにおいてこの見解に立っている。
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