ブッカー時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 20:38 UTC 版)
事故によりレスラー生命を絶たれた大剛は、IWE北米支部長の肩書きでカナダに残り、ジョー・タイゴーの名でブッカーとして外人レスラー招聘を行なう。当時、国際プロレスはAWAと提携していたが、AWAへ支払う高額なブッキング料が経営を圧迫していたこともあり、大剛ルートからの招聘の比重が高まるに至り、バーン・ガニアから「自分達(AWA)を取るか、大剛を取るか」と迫られ、この際に吉原功代表が大剛を選んだために提携は解消され、AWAは全日本プロレスとの提携に踏み切る。この後、国際プロレスはカルガリーやモントリオールなど大剛のカナダ・ルートをはじめ、大剛のブッキングで来日したジプシー・ジョーの仲介によるミッドサウス・ルートからの選手招聘を行なうが、WWWFと提携した新日本プロレス、NWAおよびAWAと提携した全日本プロレスに比べると見劣りがあり、後の団体解散の遠因の一つとなった。 1981年の国際プロレス解散後も、カナダでモントリオール地区を中心にブッカーを続け、ジェリー・モロー(稲妻二郎)の全日本プロレス出場を斡旋したり、若松市政をマネージャーとしてカルガリーに招聘したりしていたが、1984年7月、新日本プロレスが吉原功を顧問として迎えたことが縁で、新日本の北米支部長に就任した。これに対し、それまでカルガリーでブッカー、トレーナーとして新日本への選手派遣や海外修行中の若手選手の面倒を見ていたミスター・ヒトが反発。過去のギャラ支払いトラブルと合わせ、ヒトは新日本と縁を切りジャパンプロレスと提携、ダイナマイト・キッド&デイビーボーイ・スミスを新日本から全日本へ移籍させる事態となってしまった。 新日本でのブッカー業務では、キングコング・バンディ、ハクソー・ヒギンズ、ビリー・ジャック、コンガ・ザ・バーバリアン、ジャイアント・グスタブ(マネージャーは旧友ブッチャー・バション)、ザ・ジャッカル、クラッシャー・バンバン・ビガロ、ビシャス・ウォリアー、コーポラル・カーシュナー、パニッシャー・ダイス・モーガンの初来日や、アレックス・スミルノフ、ホーレス・ボウダーの移籍などで手腕を発揮。1990年代からは海外修行に出た新日本の若手選手のトレーナーや世話役としても活躍していた。 2017年11月4日(現地時間)、大腸癌のため死去。75歳没。
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