フロリダ植民地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/31 04:48 UTC 版)
詳細は「エバーグレーズ地域のインディアン」を参照 インディアンにはヨーロッパ人がもたらした疫病に対する抵抗力がほとんどなく、またスペイン軍がフロリダ北部でインディアンの反乱を弾圧したことで、この地域にヨーロッパ人が渡来するとフロリダ・インディアンの人口は減少した。またカロライナの州兵とそのインディアン同盟がフロリダ半島全域で幾度も攻撃を仕掛け、18世紀初頭までには残るインディアンのほとんどを殺害したか、捕虜にした。1763年にスペインがフロリダをイギリスに割譲するさい、スペイン軍は、わずかに生き残ったフロリダ・インディアンをキューバに送った。 アメリカ南東部の様々な部族は、新天地フロリダへの移住を開始した。1715年にはヤマシー族(en:Yamasee)がスペインの同盟者として、イギリス植民地軍との紛争後にフロリダへ移動した。クリーク族は、まずロウワー・クリーク族がフロリダに移り始め、やがてアッパー・クリーク族がこれに続いた。ヒチティ(en:Hitchiti)語を話すグループの支族であるミカズキ族は、現在のタラハシー近郊のミカズキ湖(en:Lake Miccosukee)周辺に入植した。この一族は、今日までミカズキ族(en:Miccosukee)として独自のアイデンティティを維持している。カウキーパー(en:Cowkeeper)率いるヒチティ語を話す他の集団は、スペイン人が17世紀に牧場を経営した土地、現在のアラチュア郡に入植した。最も有名な牧場のひとつがラチュアと呼ばれていたので、この地域は「アラチュア大草原(en:Paynes Prairie)」として知られるようになった。セントオーガスティンのスペイン人は、アラチュアのクリーク族を「野蛮」や「奴隷」といった意味の「シマロン」と呼びはじめたが、これがセミノールの語源である可能性は高い。このシマロンという名は、やがてフロリダの他の部族をも指すようになったが、各部族は依然として個々のアイデンティティを維持していた。セミノール戦争時点でフロリダにいた他のグループには、カルーサ(en:Calusa)地方の出身と信じられていたため「スパニッシュ・インディアン」と呼ばれていたユチ(en:Yuchi)や、フロリダ海岸部のスペイン人・キューバ人の漁場で暮らしていた「牧場インディアン」などがある。 また、18世紀のフロリダへの移住者には逃亡奴隷もいた。スペイン領フロリダに着くことができた奴隷は本質的には自由であった。スペイン当局は逃亡奴隷を歓迎し、セントオーガスティンに隣接したフォート・モーセ(en:Fort Mose Historic State Park)の住民として居住することを許可し、都市防衛のため彼らを民兵として起用した。他の逃亡奴隷は、時に奴隷として、時に部族の自由なメンバーとして、様々な「セミノール」の一団に加わった。いかなる場合でも、フロリダ・インディアンの下の奴隷制の重荷は、英領の植民地のそれよりかなり軽かった。ジョシュア・リード・ギディングス(en:Joshua Reed Giddings)の1858年の記述によれば、「彼らは奴隷を自由と奴隷の中間で処遇し、奴隷は通常自分の家族とともに暮らして自分の時間をもち、少量のとうもろこしや野菜を主人への支払に充てる。このクラスの奴隷は白人にとりもっとも嫌なものである」という。スペインが1763年にフロリダを去ったとき、フォート・モーセの元奴隷の大部分はキューバに行ったが、様々なインディアン部族と共に留まる者もあり、南北カロライナ州やジョージア州の奴隷たちはさらにフロリダへと逃亡を続けた。フロリダに留まったか、または後にセミノールに加わった黒人たちは、部族社会に融合して言語を習得し、部族の衣装をまとい、混血婚をした。これらのブラック・セミノールの何名かは部族の重要なリーダーとなった。
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