フロリダ時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 23:50 UTC 版)
「フレデリック・ディーリアス」の記事における「フロリダ時代」の解説
アメリカ行きというアイデアが、ユリウスのものだったのかフレデリック本人のものだったのかは明らかではない。フロリダの大きな不動産会社は、ブラッドフォードなど英国内にも支社を持っていた。そこで、当時のフロリダで書かれたディーリアスに関する論文において、ウィリアム・ランデル(William Randel)が推測するところでは、父のユリウスがブラッドフォードの事務所を訪れてわがまま息子をオレンジ栽培のために送り出すことを思いついたか、フレデリック本人が実家の羊毛業から逃れる方策にこの案を父に進言したか、両方の可能性が考えられるとしている。ディーリアスがフロリダに滞在していたのは1884年の春から1885年の秋までの期間で、ジャクソンビルに近いセントジョンズ川岸のソラノ・グローヴ(Solano Grove)のプランテーション農場に寝泊りしていた。ここでもやはり彼は音楽に夢中なままで、ジャクソンヴィルで出会ったオルガン奏者のトーマス・ウォード(Thomas Ward)から対位法と作曲などの音楽理論の指導を受けるようになった。後年、ディーリアスは自分が受けた教えの中で有用だったものは、ウォードのものだけだったと述べている。 ディーリアスは後になって、ソラノ・グローヴでの住まいを「掘っ立て小屋」と表現するのを好んだが、建物は4部屋を有する大きなコテージであり、彼が来客をもてなすのに十分な空間があった。ウォードをはじめ、ブラッドフォードからの旧友のチャールズ・ダグラス(Charles Douglas)や兄弟のエルンスト(Ernst)も時おりここに滞在した。川から吹き込む風とオークの木で出来る木陰のおかげで度を超した夏の暑さから守られ、この家は住み心地のいいものであった。ディーリアスはオレンジの栽培という仕事にはほとんど目もくれず、音楽へ寄せる興味を探求し続けた。ジャクソンヴィルにはヨーロッパ出身の者にとっては豊かであると思われるような、一風変わった音楽が根付いていた。ランデルが記すところによると、地元のホテルではアフリカ系アメリカ人の給仕たちが歌手を兼業しており、日常的にパトロンのために、また通行人相手に歌を披露していた。これらがディーリアスが黒人霊歌に触れるきっかけとなった。加えて、船舶の所有者は甲板員らに仕事中に歌を歌うことを奨励していた。「昼夜を問わず、蒸気船が近くを通ると水面を越えてソラノ・グローヴの彼のベランダに届く、芳醇で透き通った歌声。ディーリアスは聞こえてくるそれを決して忘れることはなかった。これ以上の環境は想像しがたい。それほどまでに作曲に適した、そしてオレンジの栽培に不向きな環境であった。」 フロリダ在住中にディーリアスは最初の作品を出版している。「Zum Carnival」と呼ばれるピアノのためのポルカである。1885年の暮れ、ソラノ・グローヴで任されていた管理人の職を離れ、バージニア州のダンヴィルへと引っ越した。それからは彼は完全に音楽のみに打ち込むことになる。地元の新聞の広告にこういう文言が掲載された。「フリッツ・ディーリアスがまもなくピアノ、ヴァイオリン、音楽理論、作曲の指導を開始します。授業は生徒の家庭で行う予定です。期間は常識的範囲。」ディーリアスはフランス人やドイツ人にもレッスンの呼びかけを行っていた。ダンビルは音楽が栄えた町であり、彼の初期作品もそこで公開演奏されるなどしたのである。
※この「フロリダ時代」の解説は、「フレデリック・ディーリアス」の解説の一部です。
「フロリダ時代」を含む「フレデリック・ディーリアス」の記事については、「フレデリック・ディーリアス」の概要を参照ください。
- フロリダ時代のページへのリンク