フランス領、そして再びハプスブルク家へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 11:27 UTC 版)
「ルクセンブルクの歴史」の記事における「フランス領、そして再びハプスブルク家へ」の解説
1616年、三十年戦争が勃発すると、ルクセンブルクもその混乱に巻き込まれた。特に1635年にフランスが参戦するとルクセンブルクは戦場と化し、傭兵達がルクセンブルクで暴虐の限りを尽くした上に、飢えとペストがルクセンブルクを覆い尽くした。結局、1648年にヴェストファーレン条約が結ばれて三十年戦争が終了しても戦闘は続き、1659年、ピレネー条約によりスペイン、フランス間で講和が結ばれるまで戦場であり続けた。そしてこの時、ルクセンブルクの一部がフランスに割譲され、「フランス領ルクセンブルク」を形成した。 しかしフランス王ルイ14世はそれだけで満足せず、ピレネー条約を都合よく解釈してルクセンブルクの大部分を要求、1679年から1681年の間に攻撃を開始、1684年にはルクセンブルク市を占領した(再統合戦争)。その年、休戦協定が結ばれルクセンブルクは徐々にフランスに取り込まれつつあり、この時代にルクセンブルク市街地の外周壁は建設された。しかし、ルイ14世にスペイン王位継承のチャンスが発生すると1688年に勃発していた大同盟戦争をレイスウェイク条約を結ぶことによって妥協、ルクセンブルクはフランスから再びスペイン・ハプスブルク家の元へ戻ることとなった。 1700年、カルロス2世が死去したことによりスペイン・ハプスブルク朝が途絶えたが、カルロス2世はスペイン王位を姉の孫アンジュー公フィリップへ譲ることを表明していたが、叔母の孫に当たり同族でもあるオーストリア・ハプスブルク家のカール6世もその権利を主張、1701年、ここにスペイン継承戦争が勃発した。この戦争により、スペイン王位、スペイン本土はフィリップが継承することとなったが、「スペイン領ネーデルラント(南ネーデルラント)」はカール6世が受け継ぎ、「オーストリア領ネーデルラント」となった。 カール6世はルクセンブルクの戦略価値を考え、1726年から要塞化を始めた。この工事は40年にわたったが、ルクセンブルクはヨーロッパ各地での戦争、ポーランド継承戦争やオーストリア継承戦争、七年戦争に巻きこまれることはなかった。これは1754年のフランスとオーストリアの和解による恩恵の賜物であった。この時期、戦争資金や兵士への徴用などはあったものの、これまでの2世紀間と比べれば押しなべて平和な時代であった。 マリア・テレジアとその息子ヨーゼフ2世の時代、ルクセンブルクは改革の時代に入った。マリア・テレジアは総督に義弟シャルル・ド・ロレーヌを任命したが、シャルルはネーデルラントの諸特権の尊重を行いながら有用な改革を行うよう勧告、1740年以降様々な改革が行われた。1766年には徴税を公平にするために土地台帳の制定も行われ、それまでの特権や既得権などにまで改革の手は及んだ。そのため、シャルルは南ネーデルラントでは人気のある統治者となり、1753年以降は負債も解消され、1760年代には黒字へ転換した。さらにマリア・テレジアの40年にも及ぶ治世の間、ルクセンブルクではオランダとを結ぶ幹線道路も建設され、交通網の整備が整ったが、その後を継いだヨーゼフ2世の改革は伝統的な諸特権を廃止したため、すこぶる人気が悪かった。 1789年7月にフランス革命が勃発すると、その影響を受けたベルギーではブラーバント革命が勃発、オーストリア軍はルクセンブルクへ撤退、ベルギーではベルギー合衆国の建国が宣言された。しかし、ヨーゼフ2世の後を継いだレオポルト2世はベルギー合衆国を撃破、再び南ネーデルラントはオーストリア領となった。 フランス革命の波及を恐れたレオポルト2世は、1791年にプロイセンと同盟を結んだが、これを危機としてフランスは4月にオーストリアへ宣戦布告を行った。当初はプロイセン・オーストリア軍らが有利であったが、ヴァルミーの戦い以降は形勢が逆転、さらにジュマップの戦いによりオーストリア軍は撃破され、オーストリア領ネーデルラントはフランスに占領された。その後、一時的にオーストリアはネーデルラントを奪取する事もできたが、結局1795年にフランスに併合され、1797年のカンポ・フォルミオ条約および1801年のリュネヴィルの和約によって皇帝フランツ2世は南ネーデルラントを正式に放棄した。
※この「フランス領、そして再びハプスブルク家へ」の解説は、「ルクセンブルクの歴史」の解説の一部です。
「フランス領、そして再びハプスブルク家へ」を含む「ルクセンブルクの歴史」の記事については、「ルクセンブルクの歴史」の概要を参照ください。
- フランス領、そして再びハプスブルク家へのページへのリンク