フランス革命期から第一帝政期(1789年 - 1814年)
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「オルレアニスム」の記事における「フランス革命期から第一帝政期(1789年 - 1814年)」の解説
ルイ14世の甥として生まれ、フランス王国の摂政を務めたオルレアン公フィリップ2世は、サン=シモン公爵(フランス語版)によれば、(少なくとも気を許した者たちとの集まりや談義の中で)自分がイギリスの自由や立憲君主制に惹きつけられている、と常日頃から発言していたとされる。フランス革命の初期、その曾孫で国王ルイ16世とその妃を毛嫌いしていたオルレアン公ルイ・フィリップ・ジョゼフは、自然とリベラル王党派の代弁者を引き受けることになった。ルイ・フィリップ・ジョゼフの息子ルイ・フィリップが王位を獲得できたのと同様、この立場から自由主義者の推す国王候補となることはきわめて容易であった。 一方、それまでフランス王家であったブルボン家嫡系(その当主はルイ18世からシャンボール伯爵アンリまで)は自由を定める憲章あるいは憲法を制定する用意はあったものの、自分たちの王権が「神意」によること、臣民の自由は国王の自由意思によって付与されるものであることを主張してもいた。こうした封建的な言葉に多くのフランス人が感情を害し、人々はブルボン王家の下での恩恵としての自由は、常に罰としての自由の撤回と結びつくのだと判断した。そのため、共和制よりは君主政体のほうがフランスには望ましいが、一人の人間の意志に左右される自由に甘んじるのも嫌だと考える人々は、国民の選択によって支配者に選ばれたと称するボナパルト一族の支持者(ボナパルティスト)か、「原初の契約」および人々の意思に基づいて統治するつもりのあるオルレアン家の公爵たちの支持者(オルレアニスト)となった。ブルボン王家の嫡系を支持するレジティミストとオルレアニストとは、統治基盤に対する考え方に関して深い亀裂が存在するのである。 オルレアニストの第1世代は、大革命の混乱に圧倒されることになった。ルイ・フィリップ・ジョゼフは、第一共和政の下で「フィリップ・エガリテ」(Philippe Égalité、「平等な」フィリップ)と名乗り、ルイ16世の処刑に賛成票を投じたが、自身も1793年にはギロチンにかけられた。しかし歴史家アルベール・ソレルによれば、オルレアニストはこの痛手を乗り越えて第一帝政期を生き延び、ルイ18世とシャルル10世の下で復活した正統王朝を倒した自由主義の復権の中で、歴史の表舞台に戻ることになるのである。
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