フランス革命政府の元で
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「トゥーサン・ルーヴェルチュール」の記事における「フランス革命政府の元で」の解説
1795年にはトゥーサンはよく知られた人物となっていた。黒人から尊敬を集め、多くの白人やムラートからもサン=ドマングの経済を建て直す助けになるとみられていた。彼はフランス革命政府の法を無視してプランテーション経営者が戻ることを認め、元奴隷たちを軍令で働くように命じた。彼は人々は自然には怠惰であると信じ、怠惰を防ぐためには強制も必要だと考えた。ただし、労働者はもはや鞭打たれることはなく、法的には自由で平等であった。そして再建されたプランテーションの利益を分け合った。トゥーサンは和解を説き、また「多数派であるアフリカ生まれの黒人は白人やヨーロッパ化されたムラートから学ぶべきことが多くある」と信じていたせいもあり、人種間の緊張は緩和した。 ラヴォーは1796年にサン=ドマングを離れた。フランス革命政府の弁務官の後任にソントナが就いた。彼はトゥーサンの統治を認め階級を少将に上げた。しかしトゥーサンはヨーロッパを根絶やしにしようとする白人の過激派であるソントナに無神論、粗雑さ、倫理なき攻撃性などを観て、彼の提案を拒んだ。いくつかの策略を費やして1797年にトゥーサンはソントナを追放した。 次いでフランスと交戦中であるイギリスは損失が大きかったためトゥーサンとの秘密交渉に及んだ。1798年及び1799年の条約でイギリス軍は完全撤退を保証し、サン=ドマングは利益の出る貿易をイギリス及びアメリカ合衆国と始めた。武器や商品と引換えに砂糖を売りトゥーサンは英領であったジャマイカおよび米国南部を侵さないと約束した。イギリスは彼を独立国ハイチの王として認めると提案したが、彼はイギリスが奴隷制を続けていることを不審に思いそれを拒んだ。イギリス軍は1798年に撤退した。 フランスによる名目の上官として総裁政府の代表者ガブリエル・エドゥヴィルが1798年に赴任した。エドゥヴィルはトゥーサンを南部で半独立状態であったムラートのアンドレ・リゴーと対立するように仕向けた。しかしトゥーサンはそれに気付き、エドゥヴィルを逃亡させた。エドゥヴィルの後任にはフィリップ・ルームがあたった。1799年10月の血腥い作戦でトゥーサンはリゴーを排除しフランスへの亡命を余儀なくし、南部のムラートの半独立国も破壊された。このジャン=ジャック・デサリーヌによる粛清は残忍過ぎてムラートとの和解は不可能になった。 1799年5月22日トゥーサンはイギリス及び米国と貿易協定を結んだ。アレクサンダー・ハミルトンは米国における強力な支援者であったが、1801年にトーマス・ジェファーソンが米国大統領に就くとハイチとの友好政策は覆された。 サン=ドマング全土を掌握すると、トゥーサンは奴隷制を維持していた旧スペイン領サントドミンゴ(1795年のバーゼルの和約でフランス領となっていた)に転じた。そしてフランスの第一執政となったナポレオン・ボナパルトの命令も無視し、1801年1月に侵攻して24日には公式に全島を掌握し奴隷を解放した。そして委員会に諮って植民地独自の憲法を起草、公布し7月7日に施行して全イスパニョーラ島に自らの権限を打ち立てた。
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