フランス革命戦争での戦歴
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「シドニー・スミス (軍人)」の記事における「フランス革命戦争での戦歴」の解説
1792年、スミスの弟ジョン・スペンサー・スミスは、イスタンブールのオスマン帝国宮廷に対するイギリス大使館に勤務することになったため、スミスも許可を得てトルコに滞在したが、トルコ滞在中の1793年1月、フランスで革命戦争が勃発した。スミスはイギリス人水夫を雇うと、フランス海軍の地中海側の主たる軍港であるトゥーロンを占拠していたサミュエル・フッド提督のイギリス艦隊に合流した。フッド艦隊はフランス王党派軍の要請で現地に進出していた。 スミスの到着した1793年12月、ナポレオン・ボナパルト砲兵大佐を含む革命軍は軍港に包囲攻撃を仕掛けていた(トゥーロン攻囲戦)。イギリスとその同盟国は効果的な防衛を行う兵力が不足しており、港を放棄せざるを得なくなった。スミスは自ら志願して、港が革命軍に占拠される前にできるだけ多くのフランス艦船と貯蔵物資を焼き払う任務を与えられた。彼の努力にもかかわらず、支援のために送られたスペイン軍の非協力によって、フランス艦船の半分以上は無傷で革命軍に捕獲された。スミスは、それ以前に最も成功した海戦よりも多くのフランス艦を破壊したにもかかわらず、全フランス艦隊の破壊に失敗したとしてネルソンやコリングウッドらから非難された。 ロンドンへの帰還に際してスミスは5等艦「ダイヤモンド」の指揮を任され、1795年にサー・ジョン・ボーレーズ・ウォーレンの指揮する「西部フリゲート戦隊」に加わった。この戦隊は、サー・エドワード・ペリューを含む最も有能で大胆な艦長で構成されていた。スミスはこの形態に適しており、フランス艦隊を偵察するために、ブレスト港にほとんど入るところまで艦を持ち込んだこともあった。 1795年7月に、スミス艦長は「ダイヤモンド」で西部フリゲート艦隊を指揮して、ノルマンディー沖のサン=マルクーフ島を占領した。彼は島の防備を固め、一時的に海軍部隊で守備するための兵員と武器を、砲艦「バジャー」および「サンドフライ」から捻出した。防備の補強は陸軍工兵隊によって行われ、海兵隊と陸軍砲兵隊の分遣隊が置かれた。島は、沿岸航行を妨害するための拠点であり、またフランス亡命者の通過点でもあるル・アーヴルを封鎖する前進基地として用いられ、ほぼ7年の間、海軍によって保持された。 スミスは専ら沿岸作戦に従事した。そして1796年4月19日、ル・アーヴルでフランスの船を奪い取ろうとしていたときに捕らえられてしまった。スミスは搭載ボートで港に逃れたが、港を去ろうとしたそのときに風が止み、乗った船はフランスに奪還された。このような場合には捕虜交換の対象となるのが習慣だったが、スミスは、トゥーロンでの艦隊焼き打ちの嫌疑によりパリのタンプル塔へ連行された。フランスは、スミスがその時点では半給休職の状態であったため、正規の戦闘員ではないと考え、捕虜としてではなく、海賊として扱われたためである。 スミスを捕虜交換の対象にしようとするいくつかの試みと、フランス王党派とイギリスの諜報員の頻繁な接触にもかかわらず、彼は2年間パリに留め置かれた。フランス当局は何度か彼を放火の容疑で断罪すると脅迫したが、脅しが実行されることはなかった。結局、1798年にスミスは王党派の手助けによって脱走に成功した。王党派は彼をもう一つの刑務所へ移すと偽ってル・アーヴルに運んだ。そこで彼は釣り舟に乗り込み、イギリス海峡をパトロール中のイギリスのフリゲートに救出された。そして1798年5月8日にロンドンに到着した。
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