ファミリーコンピュータの歴史
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ファミリーコンピュータの歴史(ファミリーコンピュータのれきし)は、1982年のファミリーコンピュータの開発から1985年のNintendo Entertainment System(NES)の発売、そして1980年代後半にこのプラットフォームを基盤とした任天堂の世界的支配力の確立に至るまでを指す。ファミリーコンピュータ(通称ファミコン)は1982年に開発され、1983年に日本で発売された。1983年の北米のアタリショックを受け、ファミコンはNESへと改良され1985年に北米で発売された。任天堂はこれによってアーケードゲーム中心の歴史から脱却し、世界的な8ビット家庭用ゲーム機プラットフォームへと進化した。ファミコンおよびNESはメガドライブを含む次世代16ビット機との激しい競争を繰り広げ、1990年のスーパーファミコンおよび1991年のSuper Nintendo Entertainment System(SNES)に継承されたが、1995年までサポートと生産は続けられた。
NESへの関心はコレクターやエミュレータによって再燃し、任天堂自身のバーチャルコンソールにも取り入れられている。また、2018年9月19日には有料サービスNintendo Switch Onlineの一環として、「ファミリーコンピュータ Nintendo Switch Online」が展開された[1]。
起源(1981年-1984年)
開発(1981年-1983年)
テレビゲーム産業は1970年代後半から1980年代初頭にかけて、アーケードゲーム黄金時代や第二世代ゲーム機によって急速に成長しかつてない人気を博した。『スペースインベーダー』(1978年)とそのクローンは世界中のアーケードで大成功を収め[2]、ゲーム機ではAtari 2600やインテレビジョンが北米の家庭で人気となり、日本ではエポック社のカセットビジョンが最も売れたゲーム機となった[3]。任天堂をはじめ多くの企業がこの流れに乗じて業界に参入した。

ファミコンのハードウェアの着想元はアーケードゲームのハードウェアであり、大きな影響を与えたのはナムコの『ギャラクシアン』(1979年)であった。スペースインベーダーのビットマップ描画システムを、スプライトをスクロール背景の上に重ねるハードウェアによる方式に置き換え、より精細なグラフィックス、速いゲームプレイ、スクロールする星空背景を実現した。これを基盤とし、任天堂は池上通信機と共同開発した『レーダースコープ』(1980年)のアーケード基板を製作し、高速エミッタ結合論理ICチップや50MHzのプリント基板上に大容量メモリを搭載するなどで性能を向上させた。しかし『レーダースコープ』の商業的失敗により、この基板は『ドンキーコング』(1981年)用に転用され、結果として大ヒットした。当時の家庭用機はドンキーコングの移植に十分な性能を持たなかったため、任天堂は完全移植が家庭で遊べるシステムを作ろうとした[2]。
開発は上村雅之率いる任天堂の開発第二部によって1982年から始められた。競合製品より安価でありながら、少なくとも1年間は他社に負けない性能を目標に掲げていた[2]。この開発プロジェクトはコードネーム「GAMECOM」と呼ばれた[2]。上村はAtari 2600やマグナボックス・オデッセイといった競合機を分析して原始的技術を回避した[4]。当時国内で最も売れたゲーム機はエポック社のカセットビジョンであり、社長の山内溥はより高い性能で安価なゲーム機を開発するよう社員に命じた[3]。任天堂の中川克也はドンキーコングのアーケード基板のICチップを分析し、それを基に家庭用機が開発可能であると結論づけた[2]。また、澤野貴夫はゲーム&ウオッチの十字キーを家庭用機の操作系として応用することを提案した[5]。
一方北米では玩具メーカーのコレコがAtari 2600への対抗機としてコレコビジョンを開発中で開発第二部の技術者に試作品を披露した。滑らかなグラフィックに感銘を受けた沢野と上村は以後の設計に意識して取り入れた。しかしコレコビジョンですらドンキーコングのアーケード基板に匹敵する性能はなく、あくまで移植版のドンキーコングのバンドルで大きな成功を収めたに過ぎなかった[5][6]。
上村は中川克也、大嶽正弘をリコーに派遣した。リコーの上司の一人である八木宏光は元三菱電機出身で、かつてカラーテレビゲーム用のLSI開発を担当していた。新型機の仕様決定に際し、彼らはドンキーコングの筐体を持ち込み解析させることで、当時の家庭用を超える性能を目指した[5]。
当初上村は最新の16ビットCPUを検討したが、費用の面から安価なMOS Technology 6502系の8ビットCPUを採用し、リコー製カスタムグラフィックチップ(画像処理ユニット)を加える形に落ち着いた[7]。コスト低減のため、キーボード、モデム、フロッピーディスクドライブ搭載案は却下されたが、将来的な拡張のため15ピンの拡張端子が前面に設けられた。ここには専用コントローラやファミコンキーボード、ファミコン光線銃、ファミリートレーナー、さらには日本専売のファミコン3Dシステムなどが接続可能であった。さらにファミリーコンピュータディスクシステム、ファミコンネットワークシステムなどもカートリッジスロットを介して接続された。
上村は1975年のテレビテニスの無線送信機能をファミコンに搭載することも検討したが、システムコストを理由に断念した[8]。
日本でのファミコン発売(1983年-1984年)

任天堂は独自の展示会でファミコンを公開し、玩具ショー出展者の間で話題となった。その直後に競合のセガのSG-1000が東京おもちゃショーで発表された[9]。
1983年7月15日に発売された[10]ファミリーコンピュータ(和製英語の「ファミコン」として一般に知られる)はROMカートリッジ式の8ビット機である[7]。ファミコンの価格は日本円で14,800円価格は14800円(当時150ドル前後[3]、2023換算で$460.00相当)だった。本体と同時に『ドンキーコング』、『ドンキーコングJR.』、『ポパイ』の3作品がローンチタイトルとして発売された[11]。本体はおもちゃを意識した赤と白のカラーデザインで、両側に収納された有線コントローラ2基を備えていた。
発売初期は好調で[12]、2か月で50万台を販売した[13]。しかし多くの初期出荷分でグラフィックチップに欠陥があり[14]、ゲーム中にフリーズする不具合が発生。原因は回路の欠陥にあったため、任天堂は年末商戦直前に自主リコールを行い出荷を停止、この対応で数百万ドルの損失を負った。その後新マザーボードを搭載して再出荷された[15]。競合機のSG-1000を圧倒し、1984年末までに国内販売は250万台を超えた[16]。これはカセットビジョンを超えて国内首位の地位を確立した[3]。売上は予測を上回り、品切れが続出したため、翌年の生産拡大が決定した[17]。
任天堂は当初、発売初年は自社のみがソフトを供給する予定であったが、大手アーケードメーカーのナムコが開発参入を希望し、カートリッジ製造手段を持たなかったため契約を結んだ。その条件は販売本数の30%を任天堂が徴収するもので、10%をライセンス料、20%をカートリッジ製造費とした。1984年までに他社ソフトが発売され、以降この30%は事実上の標準ライセンス料となり、2010年代まで各種ゲーム機市場に影響を与え続けた[18]。
国際展開(1984年-1987年)
アタリとの販売交渉(1983年)
日本での成功に支えられ、任天堂はまもなく海外市場に目を向けた。新たな家庭用ゲーム機メーカーとして、同社は懐疑的な一般消費者に自社システムを受け入れさせる必要があった。そのため任天堂はアタリと交渉を行い、ファミコンを「Nintendo Enhanced Video System」として日本国外で発売する計画を立て、1983年末までの販売を目標としていた[20][21][22]。両社は1983年夏のコンシューマー・エレクトロニクス・ショー(CES)で正式契約を結ぶ寸前まで至ったが、アタリは直前で署名を拒否した。当時のライバル企業コレコが自社の新型ホームコンピュータのColeco Adamでドンキーコングの試作版を出展していたためであった。コレコは家庭用ゲーム機のコレコビジョン版ドンキーコングのライセンスを持っていたが、アタリは同作のコンピュータ版ライセンスを独占していたためである。コレコアダムはコレコビジョンの後方互換性を持つため自動的に動作可能だったものの、アタリはこれを任天堂がコレコとも提携している兆候と誤解した。1か月以内に誤解は解かれたものの、その時点で1983年の北米のアタリショックによる経営悪化と、CEOのレイ・カサール退任の影響によりアタリは契約を遂行できず、計画された発売に間に合わなかった[22][23]。
北米
任天堂VS.システム(1984年-1986年)
ファミコンのハードウェアは1984年、アーケード向け任天堂VS.システムとして北米に初上陸した。このシステムの成功はNES家庭用ゲーム機の正式発売への道を開いた[3][24]。1983年のゲーム市場崩壊後、多くのアメリカ小売業者はゲームを一過性の流行と見なし、在庫を大幅削減ないし販売を中止していた[25]。さらにアーケード業界も黄金期の終焉で低迷したが、ソフト交換キットの登場で回復と安定を遂げていた。山内溥は北米でもゲーム市場の可能性がまだ残されており、ゲーマーが再びアーケードに戻りつつあることに着目し、ファミコンをまず業務用市場に導入する決断を下した[3]。
任天堂はファミコンと同じハード構成でVS.システムを開発し、『ドンキーコング3』や『マリオブラザーズ』(1983年)に用いられたNintendo-Pakシステムの後継として投入した。VS.システムは、より高性能な『パンチアウト!!』の基板より技術的に劣っていたが、安価であったことから「枯れた技術の水平思考」を掲げる横井軍平の哲学を体現する存在となった。また容易にファミコンのソフトを移植でき、幅広いゲームライブラリを提供可能であった[3]。発売されると、移植の容易さ、安価さ、柔軟性、対戦機能などでアーケード業界から高く評価された[3][26]。
VS.システムは北米アーケードで大成功を収め[3]、1984年中に1万から2万台が販売された[27]。 VS. Tennis[28][29]やVS. Baseball[30][31]などがアーケード収益ランキング上位を獲得し、1985年には『ダックハント』や『ホーガンズアレイ』が続いた[32]。1985年までに5万台を販売し、任天堂はアーケード業界のリーダー企業としての地位を築いた[33]。VS.システムは同年アメリカにおける最高売上を記録したアーケード筐体となった[34]。NESが北米で発売される頃までに、10万台近いVS.システムがアメリカのアーケードに導入されていた[35]。
VS.システムの成功は、任天堂が北米市場にNESを投入する自信となった。アーケードで築いた高い評価はNESへの期待を呼び、さらにVS.システムを通じて新作ソフトを試験的に投入し、その反応をNES発売ラインナップに反映するという戦略も可能とした。任天堂はまずファミコン向けにソフトを開発し、次にVS.システム、そしてNESへと展開させる手法を採用した。この戦略のおかげでNESのローンチタイトルは充実し、多くのゲームが北米でVS.システムを通じて先行登場したことで、NES版の「移植度」に驚くプレイヤーも多かったが、実際はほとんどがファミコン発の作品であった[3]。
Advanced Video Systemホームコンピュータ(1985年)

山内溥は1986年に「アタリはサードパーティーに自由を与えすぎたため、粗悪なゲームで市場があふれて崩壊した」と述べている[37]。アタリとの契約が破談した後、任天堂は単独で進むことを決め、ファミコンを「Nintendo Advanced Video System(AVS)」として洗練されたデザインへと再構想した[38]。市場が同様に粗悪ソフトで飽和することを防ぐため、任天堂は10NESロックアウトシステムを追加し、未許諾ソフトの動作を阻止して厳格なライセンス規格を適用できるようにした。ソフトにはNintendo Seal of Qualityが付与され、任天堂の承認を示すものとなった。
製品デザイナーのランス・バーは、ファミコンのデザインを洗練されたスタイルに改造した。おもちゃのような白と赤の配色は廃され、灰色・黒・赤を組み合わせた清潔感と未来的な配色へ変更された。上部と下部を異なるグレーで分け、トップには黒のストライプとリブ、さらに部分的に赤のアクセントを加えた。形状はより箱型となり、上部は平らで、下部は小さくすぼまる形状となった。本体前面にはワイヤレスコントローラを収納できるスペースが設けられた[38]。
任天堂は「ゲーム機」というイメージを避けるため、AVSを完全なホームコンピュータとして宣伝した[39]。同梱される周辺機器には、キーボード、データ保存用のカセットデータレコーダー、BASICインタープリタ付きソフトウェアカートリッジが含まれていた[40]。BASICインタープリタは後にキーボードとともに「ファミリーベーシック」として販売され、カセットデッキもファミコンデータレコーダーとして発売された。
AVSには多彩な入力デバイスが含まれており、ゲームパッド、携帯用ジョイスティック、3オクターブの電子鍵盤、そしてZapperの光線銃があった。AVS版Zapperは折りたたみ式で、棒状から銃型に変形可能であった。さらにAVSは、キーボードやカセットデッキ、コントローラなどすべての周辺機器との接続に無線赤外線インターフェースを採用していた[41]。Advanced Video Systemの周辺機器の多くは、現在でもNintendo World Storeに展示されている[36]。
システムの最初に確認された広告は1985年の『Consumer Electronics』誌に掲載されたもので、「種の進化は今、完成した」というコピーが添えられていた[42]。AVSは1985年1月5日から8日までラスベガスで開かれた冬のCESで展示され、[41][17] 荒川實が率いるNintendo of Americaのブースは「非常に賑わっていた」と報じられている[38]。来場者はその先進的な技術を認めつつも、キーボードやワイヤレス機能には否定的な反応を示した[39][43][41][16]。展示された25本以上のゲームはすべて完成版であり、試作品は含まれていなかった[41]。任天堂は小売価格情報を出さず、予測困難な市場で販売代理店の反応を試しているように見えた[41][44]。
Nintendo of Americaのマーケティング責任者のゲイル・ティルデンは、1983年半ばからの18か月間でファミコンが250万台以上を販売し、日本市場で90%のシェアを獲得したと報告していたが[44]、アメリカのゲーム専門誌はAVSが北米で成功するとは懐疑的であった。1985年1月12日の『News Wire』は「信じがたいことだが、日本の企業がアメリカで新しいビデオゲーム機を導入すると言っている。だがこの業界はすでに崩壊しているのに」と報じた[44]。1985年3月号の『Electronic Games』誌は「アメリカのゲーム市場はほぼ消滅しており、これは任天堂の誤算になるかもしれない」と書いている[45]。また、同年マインドスケープ社のロジャー・ブイは「誰も彼らに、この業界は死んでいると教えなかったのか?」と発言したと伝えられている[46]。
ゲーム史研究者のクリス・コーラーは「小売業者は、親会社が日本でファミコンを大ヒットさせたと言うNintendo of Americaの話に耳を貸そうとしなかった。アメリカではゲームは完全に死んでおり、パソコンこそが未来だとみなされていた。ゲームしかできず、税計算もできない機械は時代遅れだと考えられていた」と振り返っている[47]。しかしComputer Entertainerは1985年6月のCESに出席した後、控えめながらも楽観的な論調でメディアを批判し「もう一度ビデオゲームシステムが流れを覆して成功する可能性はあるのだろうか? おそらく、報道陣が任天堂のシステムを頭ごなしに否定せず、アメリカの消費者自身に委ねれば、ゲームがまだ死んでいないことがわかるかもしれない」と書いた[48]。
Nintendo Entertainment Systemとしての再設計 (1985年)

任天堂は消費者がこれを新しい娯楽の形として受け入れると小売業者に信じてもらうために、差別化のポイントを作る必要があった。…私たちはこれをビデオゲームとは絶対に呼ばないよう努力した。—ゲイル・ティルデン(Nintendo of Americaマーケティングマネージャー)[38]
1985年のCESで、任天堂はAVSを簡素化しコストを削減した再設計版を発表し、ホームコンピュータ路線を放棄した[38]。任天堂はシステムを「ゲーム機」に見せないよう意図的にデザインし、ゲーム機に関連する用語を避けた。マーケティングマネージャーのゲイル・ティルデンは、カートリッジを「Game Pak」、本体を「Control Deck」、プラットフォーム全体を「Entertainment System」と呼ぶことを選んだ[38]。名称を「Nintendo Entertainment System」(NES)に改められた新型は、AVSに盛り込まれていた高機能の多くを省いたコスト削減版であったが、灰色基調の色彩や箱型の形状といったオーディオ機器風のデザイン要素は引き継いでいた。日本から届いた化粧の施されていない試作機は「ランチボックス」とあだ名されるほど不格好で、これに不満を持ったアメリカ側デザイナーのランス・バーとドン・ジェームズは、ツートーンのグレー配色、黒いストライプ、赤いロゴを追加した[38]。
またゲーム機的な印象を隠すため、NESではファミコンやAVSが採用していた上面挿入式カートリッジスロットの代わりに、カートリッジを前面から挿入して視界から隠すVHS風の前面ローディング方式を採用した。ファミコンの直付け式2コントローラやAVSのワイヤレスコントローラは廃止され、7ピンコネクタを備えた着脱式有線コントローラ2基に変更された[39]。
さらに任天堂はNESを単なる「ゲーム機」ではなく「Entertainment System」として売り込むため、北米の小売業者向けに光線銃Zapperや、とりわけファミリーコンピュータ ロボットを強調した。ファミリーコンピュータ ロボットは画面のフラッシュに反応して動作するワイヤレスの玩具ロボットである[25]。CESではファミリーコンピュータ ロボットの存在がNESブースに小売業者を呼び込む効果を発揮したが、それでも小売業者はすぐには流通契約に同意しなかった[16]。
北米での発売(1985年-1986年)
敗北を拒む強気の姿勢を示すかのように、任天堂は総勢12名の「SWATチーム」をレドモンド本社から派遣し、精力的な直接販売キャンペーンを展開した[38][49]。メンバーには荒川實のほか、倉庫マネージャーでゲームテスターのハワード・フィリップス、デザイナーのドン・ジェームズとランス・バー、マーケティングのゲイル・ティルデンとその上司のロン・ジュディ、営業担当のブルース・ローリーらが含まれていた[38]。前年に小売流通網を確保できなかったため、任天堂自身がNESの発売を引き受け、全米発売前に複数の大都市圏で試験販売を行ったのである。通常、小規模都市で実施されるテスト販売をよそに、荒川はアメリカ最大市場であるニューヨークを選び、5,000万ドルの予算を投じた[38]。
ファミリーコンピュータ ロボットの存在によってNESを玩具として再分類し、テレマーケティングやモールでの実演販売、さらに小売業者への「売れ残り返品保証」体制を提示したことで、ニューヨークおよびニュージャージーで約500店舗の小売業者から支持を得ることに成功した。中でも象徴的な拠点はFAOシュワルツの15平方フィートの展示スペースであり、12台のプレイアブルなNESが設置され、中央の大型スクリーンではMLB選手が『Baseball』をプレイし署名会を行うという演出で観客を引き込んだ[38][50]。
荒川にとって大きな賭けであり、日本の本社に知らせることなく、任天堂は店舗設営とマーケティングをすべて自社で引き受け、商品に対して90日間のクレジットを延長し、売れ残った在庫はすべて引き取ると提案した。小売業者は前払いを一切する必要がなく、90日後に代金を支払うか、商品を任天堂に返却することができた[47][36]。リスクを任天堂が前例なく吸収するという条件に対し[47]、小売業者たちは次々と契約に応じ、そのうちの一人は驚きながら「それは君たちの葬式だ」と言った[51]。
NESには「デラックスセット」とフィリップスが選定した17本の初期ライブラリが用意された[52][38][47][50]。デラックスセットには本体「Control Deck」、ゲームパッド2個、ファミリーコンピュータ ロボット、光線銃Zapper、そして『ジャイロマイト』『ダックハント』のGame Pakが同梱された[53]。その他15本のソフト(『10ヤードファイト』『ベースボール』『クルクルランド』『エキサイトバイク』『ゴルフ』『ホーガンズアレイ』『アイスクライマー』『スパルタンX』『ピンボール』『サッカー』『Stack-Up』『スーパーマリオブラザーズ』『テニス』『ワイルドガンマン』『レッキングクルー』)が個別に販売された[54][48][47][53][50]。最初のテスト販売は1985年10月18日にニューヨークで行われ、10万台のデラックスセットが出荷されたとされる。任天堂は同月からアメリカでのマーケティングを開始した[55]。
ニュージャージー州ハッケンサックにあった倉庫はEPA違反の危険物(「ネズミやヘビ、そして有毒廃棄物が徘徊しているような場所」)で溢れていたが、SWATチームは1985年のクリスマス・イヴまで毎日働き続け、ドン・ジェームズは「あれほど長く、全力で働き続けたことはない」と振り返り、フィリップスも「毎日の夜明けから寝るまで、週7日間休みなく働いた」と語っている[38][56]。荒川は倉庫や小売店にも同行し、自らテレビを階段に担ぎ上げるなどチームの努力を共にした[57]。
販売作業中、任天堂スタッフは日米貿易摩擦や日本製品嫌悪から来る敵意に直面した。ある警備員は「日本人のために働いているのか? 失敗すればいい」と言ったという[47]。ゲイル・ティルデン自身も「任天堂って日本の会社だろう? 失敗しろ!と女性に吐き捨てられた」と語っている。小売業者も壊滅したゲーム市場を引き合いに任天堂に冷ややかで、あるマネージャーは在庫を見て「こんなガラクタを売れと言われた」と言った。最初の販売は静かに成立したが、それは後に判明したところによると日本の競合他社に雇われていた人物による購入であった[38]。
1985年のホリデーシーズンを通じて売上は爆発的ではなかったが前向きな数値を示し[38]、販売数は資料によって異なる[16][58]。任天堂は1986年に、1985年末のニューヨークテストで9週間に9万台近くを販売したと発表している[59][60][61]。また1985年には46万本のゲームカートリッジが販売された[55]。ニューヨークでの成功を受け、任天堂は1986年前半の6か月間に全米へ段階的に展開する計画を立て、1月末のカリフォルニア州から開始したと説明している[62]。
1986年1月、任天堂が委託した独立調査会社によるNESの所有者200人の調査では、購入理由の最も多かったのは子どもがファミリーコンピュータ ロボットを欲しがったためであり、その次にグラフィックの良さ、ゲームの種類、パッケージの独自性・新しさが挙げられた[59]。ファミリーコンピュータ ロボットは北米でNESの初期支持を集める要因として評価されたが[16][59]、娯楽面での評価は高くなかった。日本での対応製品「ファミコンロボット」はすでに北米発売時点で失敗しつつあった[要出典]。それでもNESはアーケードスタイルのゲームを家庭に持ち込んだことでも評価された[63]。
1986年の全米発売では、2種類のパッケージが用意された。1つはニューヨーク発売時と同じ豪華版「デラックスセット」で、価格は160ドル[64]。もう1つは99ドルの廉価版「コントロールデック」で、本体、ゲームパッド2個、そしてスーパーマリオブラザーズが同梱された[65][66]。また1986年初頭、任天堂は同年末までにファミコンディスクシステムをNES用に導入する計画を発表したが[54]、容量・速度の大きなROMカートリッジの普及によりその必要性はなくなり、アメリカでの発売計画は中止、日本でも1990年代初頭には生産終了となった。
任天堂は1986年2月にロサンゼルスを第2のテスト市場とし[38]、その後シカゴやサンフランシスコ[47]、続いて全米主要12市場で展開し[67]、最終的に1986年7月に全米発売された[68]。任天堂と、同様にアメリカでセガ・マスターシステムを展開したセガは、1986年第4四半期にそれぞれ1,500万ドルのマーケティング費用を投じる計画を立てた[37]が、その後任天堂は1,600万ドル、セガは900万ドル超と発表した[61]。任天堂はワールドズ・オブ・ワンダーと販売契約を結び、同社の人気商品「テディ・ラグスピン」や「レーザータグ」を活かしてNESの販路を拡大。1986年から1987年にかけてWoWの営業陣は巨額の歩合収入を得たが、荒川は1人あたり年間100万ドルに上限を設けた[52][25]。さらに大手小売チェーンでは、最大手のシアーズがクリスマスカタログに掲載、2位のKマートは700店舗で取り扱った[61]。
その結果、1986年に任天堂は110万台を販売したが、在庫不足がなければ140万台を販売できたと見積もられている[69]。1986年の売上高は3億1,000万ドルに達し、同年のアメリカゲーム市場全体の売上4億3,000万ドルの大半を占めた[70]。これは1985年の業界売上高1億ドルと比べても飛躍的な成長であった[71]。
簡単な取引だった。小売業者に「今日は運がいい。NESを5万台余計に持ってきたぞ」と言えば、それで即売だった。—ワールドズ・オブ・ワンダー営業担当スティーブ・レース[52]
ヨーロッパとオセアニア
NESはヨーロッパとオーストラリアでも段階的かつやや無秩序に発売された。スカンディナヴィアでは1986年9月に発売され[72][73]、大陸ヨーロッパでは1987年に国ごとに異なる時期に展開された(スペインは1988年とされる場合が多い)[74][75]。イギリス、アイルランド、イタリア、オーストラリア、ニュージーランドでは1987年に発売され、流通はマテルが独占的に担った[76]。ヨーロッパではNESは他地域ほどの熱狂を得られず、市場浸透と小売展開で後れをとったが、後年になって成功を収めた[77]。
1980年代後半、イギリスではNESの売上はマスターシステムを下回っていた[78]。1990年にはヨーロッパ全体でマスターシステムが最も売れた機種となったが、イギリスではNESのユーザーベースが急成長し始めていた[79]。1992年に入ってもセガはイギリスで任天堂を上回っており、当時『Sega Force』誌のポール・ウッディングは「任天堂は子供が部屋で一人遊びするものというイメージになったのに対し、セガは友達と一緒にアーケードで最初に体験するものだった」と語っている[80]。
1991年から1992年にかけてNESの売上はヨーロッパで急増し[81]、その背景にはゲームボーイの成功がNES販売を後押ししたことがあった[82]。1994年までに西ヨーロッパ全体ではNESがマスターシステムをわずかに上回る販売を記録した。主要市場では、イギリス・ベルギー・スペインではマスターシステムが優位だったが、フランス・ドイツ・イタリア・オランダではNESが首位を占めた[83]。オーストラリアではNESはマスターシステムほどの成功を収められなかった[84]。
韓国
韓国では、本体ハードウェアは現代電子にライセンスされ、1991年から「Comboy」の名称で販売された。第二次世界大戦後、大韓民国政府(後の韓国)は日本の「文化製品」全般の広範な輸入禁止を打ち出していた。これが1998年に撤廃されるまで、日本製品が合法的に韓国市場に参入する唯一の方法は、第三国(非日本企業)の代理販売によるライセンス契約であり、Comboyやその後継機であるスーパーファミコン版「Super Comboy」の場合も同様であった[85]。
現代は1993年までに韓国国内で36万台のComboyを販売したが、これはサムスンが「Gam*Boy」あるいは「Aladdinboy」として販売したマスターシステムの台数(73万台、1993年時点)の半分以下であった[86]。
ソビエト連邦とロシア
ソビエト連邦の崩壊後、NESの導入は2つの方法で試みられた。ひとつは現地ディストリビュータを通じた発売である[87][出典無効]。もうひとつ、そしてはるかに普及した方法は、1990年代初頭にロシアで生産された台湾製の無許諾ハードウェアクローン「デンディ」であった。外観はオリジナルのファミコンを模しているが、独自の配色とラベルが施され、コントローラ端子はDE-9シリアルコネクタ(Atari 2600やAtari 8ビット・コンピュータと同一)を前面に備えていた。
ロシアで販売されたデンディ用ゲームはすべてブートレグであり、任天堂公認ではなかった。だが1994年、任天堂はデンディの販売会社と合意に達し、デンディに関して任天堂が一切の権利を主張しないこと、そしてゲームやゲーム機の販売を容認することを取り決めた[87][88]。デンディはロシアおよび旧ソ連諸国で累計600万台が販売された[87]。
業界をリード(1987年-1990年)
日本では1986年1月までに約620万台のファミコンが販売され、これは『スーパーマリオブラザーズ』(1985年)の成功に支えられた[89][90]。その後販売台数は900万台を突破し[91]、1987年初頭には家庭用ゲーム市場の95%を独占した[92]。北米では1986年にNESが110万台を販売し[93]、世界合計では同年300万台に達した[13]。1988年までに日本国内で1200万台が販売され、アメリカでは同年末までに1000万台を突破すると予測された[94]。
NESは主な競合であるセガ・マスターシステムやAtari 7800を大きく上回る販売を記録した。この成功によって任天堂は1980年代後半の家庭用ゲーム市場を支配する地位を確立した。NES用ゲームパックも同様に高い販売実績を残し、スーパーマリオブラザーズや『ゼルダの伝説』(1986年)、『メトロイド』(1986年)といったシリーズを築く代表的ヒット作が登場した。1987年のクリスマスシーズンには、NESの販売台数はワールドズ・オブ・ワンダー社の人気商品「テディ・ラグスピン」をはじめ同社のすべての製品を上回った。1987年10月、荒川實は業績不振のWoWとの流通契約を終了し、任天堂自身の販売網を強化する一方でWoWの営業スタッフを引き抜いた。彼らは1983年にアタリが任天堂に売り込んでいた人材であった[52]。
ゼルダの伝説はアメリカで非同梱ソフトとして初めて100万本以上を販売したタイトルとなった[93]。スーパーマリオブラザーズは4000万本を超える販売数で長らく世界最高の販売本数を記録したゲームであり、1988年に日本で発売された『スーパーマリオブラザーズ3』は5億ドル以上の売上をあげ、アメリカで700万本、日本で400万本を販売し、史上最も売れて最速で普及した単体販売の家庭用ゲームとなった[95]。
1986年半ばには日本の世帯の19%(650万世帯)がファミコンを所有し[37]、1988年半ばには3分の1に達した[96]。1990年までにアメリカで2700万台以上が販売され[97]、アメリカ世帯の38%に普及した[98]。これはパソコン全体の普及率23%を上回った[99]。NESは1982年にAtari 2600が記録した普及台数を上回り、アメリカ史上最大のユーザーベースを持つ家庭用ゲーム機となった[100]。1990年には任天堂はトヨタを抜き日本で最も成功した企業となり[101]、1992年初頭までに世界で4000万台以上、1993年初頭までにアメリカで3000万台が販売された[102][103]。
この人気はコンピュータゲーム産業に大きな影響を及ぼし、経営者からは「任天堂の成功がソフトウェア娯楽市場を破壊した」「予想以上にディスク販売の落ち込みが大きい」との声があがった。コモドール64の販売成長は止まり、任天堂が1988年に販売した台数は、コモドール64が5年間で売り上げた合計台数に匹敵した。トリップ・ホーキンスは任天堂を「8ビット世界の最後の栄光」と評し[104]、1988年クリスマス時点でコモドール64のゲーム市場は完全に失われていた[105]。
最終期(1990年代)
市場の衰退 (1990年-1992年)
1980年代後半になると、任天堂の支配はより新しく技術的に優れたゲーム機によって揺らぎ始めた。1987年にはNECとハドソンがPCエンジンを発売し、1988年にはセガが16ビット機であるメガドライブを投入した。両者は1989年に北米へも進出し、それぞれTurboGrafx-16およびジェネシスとして販売された。日本ではPCエンジン、北米ではジェネシスという新たな競合に直面し、任天堂の市場シェアは侵食され始めた。これに応える形で、1990年にファミコンの16ビット後継機であるスーパーファミコン(北米とヨーロッパではSuper NESまたはSNES)を発売した。任天堂は新機種と並行してファミコンのサポートを続けると表明したが、新機種の成功がゲーマーと開発者をさらに引き寄せ、NESの衰退を加速させた。それでも任天堂は1991年9月のSNES発売後も約3年間NESのサポートを続け、最終的なファーストパーティタイトルは『ゼルダの伝説 夢をみる島』と『ワリオの森』であった。
1991年のクリスマス商戦では、北米においてNESとSNESの両方がジェネシスの売上に及ばなかった。これにより1991年から1992年にかけて北米での任天堂の市場シェアは低下した。一方で、同時期ヨーロッパではNESの販売が急成長していた[81]。
新モデルと北米での生産終了(1993年-1995年)
1993年、日本で改良版ファミリーコンピュータ(HVC-101型)が発売された。これはスーパーファミコンのデザインを一部踏襲しており、従来のHVC-001型が使用していたRFモジュレータをRCA端子によるコンポジット映像・音声出力に置き換え、直付け式コントローラを廃止し、より小型の筐体デザインを採用した。価格は4,800円から7,200円(約42から60ドル相当)で、2003年に生産が終了するまで約10年間販売が続いた[106]。
このAVファミコンの筐体デザインは、その後北米で再発売されたNESにも取り入れられた。北米版のNES-101型は、日本版HVC-101型とは異なり、初期NES-001型に搭載されていたRCAコンポジット出力端子を省き、RF出力のみに対応していた[107]。
1993年初頭のASCII Entertainmentの報告によれば、当時小売店ではNES用ソフトがまだ100本取り扱われており、これはジェネシス用の100本、SNES用の50本と並んでいた[108]。システム向けに発売された最後期のタイトルには『The Incredible Crash Test Dummies』『StarTropics II』『ワリオの森』などがある。
海外発売から10年を経た1995年8月14日、NESは正式に生産終了となり、最後に発売されたタイトルは『ライオン・キング』であった[77][109][110]。生産終了までに世界累計で6,000万台以上のNESが販売された[111]。
エミュレーション(2007年-2018年)
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NESの生産終了後、中古市場はビデオレンタル店、スリフトショップ、ヤードセール、フリーマーケット、そしてGame Time Inc./Game Trader Inc.が再パッケージ化してK-Martなどで販売したソフトによって活況を呈していた。この頃から多くの人々がNESを再発見し、1997年までに多くの旧作がコレクターに人気となった[要出典]。
同時期、プログラマたちは現代のパソコン上でNESの仕組みを再現できるビデオゲームエミュレータを開発し始めた。カートリッジのプログラムコードをビット単位でコピーしたROMイメージと組み合わせることで、パソコン上でプレイ可能になった。さらにエミュレータにはセーブステートによる進行状況の自由保存・読込など、実機にはない拡張機能も備わった[要出典]。
任天堂はこうした動きに否定的であり、ROMイメージ交換に最も強硬に反対した企業の一つとなった。任天堂とその支持者は、これをソフトウェアの著作権侵害と主張した[112]。一方支持者側は、カートリッジより脆弱な媒体に依存せずに古典的ゲームを後世へ保存できると反論した[113]。
2003年5月30日、任天堂は同年9月にスーパーファミコンの生産を終了することを発表し、同時にファミコンとディスクシステム用ソフトの生産終了も告知した[114][115]。最後のファミコン(製造番号HN11033309)は2003年9月25日に生産され[116][117]、これは任天堂に保管され、2003年12月4日から2004年2月8日まで東京都写真美術館で開催された展覧会「レベルX」に20周年記念展示品として貸し出された[118][119]。
2005年、任天堂はWii用ダウンロードサービスバーチャルコンソールでNESのクラシックタイトルを配信すると発表、自社エミュレーション技術を用いてマリオブラザーズ、ゼルダの伝説、ドンキーコングなどを最初に提供し[120]、続いてスーパーマリオブラザーズ、『パンチアウト!!』、メトロイドなども追加された[121]。
2007年、任天堂は必要部品の不足を理由にファミコンの修理受付を終了すると発表した[122]。
2016年、任天堂はオリジナルのNESを小型レプリカ化した専用機のニンテンドークラシックミニ ファミリーコンピュータを発表、30タイトルを収録し各タイトルごとにセーブステート機能を搭載して発売した[123]。オーストラリアでは11月10日に発売され[124]、ヨーロッパと北米では翌11日に発売された[123][125]。日本では30本中一部異なるタイトルを収録した「ファミコンミニ」として同日に発売された[126]。需要により即完売となり、当初より期間限定販売とされていたため2017年4月に生産終了[127]。その後、後継機「ニンテンドークラシックミニ スーパーファミコン」発売に続いて、2018年6月29日にNES Classic Editionが再発売され、同年ホリデーシーズン終了後に両機種とも生産終了となった[128][129]。2018年6月30日までにNES Classic Editionは360万台を販売した[130][131]。
脚注
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関連項目
- ファミリーコンピュータの歴史のページへのリンク