ピアソラの音楽
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/21 06:41 UTC 版)
「アストル・ピアソラ」の記事における「ピアソラの音楽」の解説
ナディア・ブーランジェはピアソラの原点はあくまでタンゴだと指摘した。しかし、一方で少年時代のニューヨーク生活などの経験から、タンゴ奏者でありながらもタンゴを外から眺める目もまた持っていたと指摘される場合もある。 元来タンゴは踊りのための伴奏音楽であり、強いリズム性とセンチメンタルなメロディをもつ展開の分かりやすい楽曲であった。ピアソラはそこにバロックやフーガといったクラシックの構造や、ニューヨーク・ジャズのエッセンスを取り入れることで、強いビートと重厚な音楽構造の上にセンチメンタルなメロディを自由に展開させるという独自の音楽形態を生み出した。これは完全にタンゴの表現を逸脱しており、「踊れないタンゴ」として当初の評判は芳しいものではなかった。一方で、ピアソラの音楽はニューヨークなどのあまりタンゴと関わりを持たない街で評価されたため、タンゴの評論家から意図的に外されるといった差別も受けた。 ブーランジェが教えた技法は主にフランスで考案された和声や対位法であり、アルゼンチンタンゴの中核をなすドイツの家庭音楽や新音楽とは、「20年先をいった」と称されたピアソラの感性はやや本流から逸れていた。アルゼンチン一線評論家が選んだタンゴ十大楽団の中で、全員が挙手した楽団はフリオ・デ・カロ、カルロス・ディ・サルリ、オスバルド・プグリエーセ、アニバル・トロイロ、アルフレド・ゴビ、オラシオ・サルガンの六つで、ピアソラはラウル・オウテーダから票を貰うことができなかった。ただし、クラシックや現代音楽の演奏家からは評価が高く、ギドン・クレーメルやロベルト・ファブリッチアーニらが好んで演奏していた。イヴァ・ミカショフのタンゴ・プロジェクトはピアソラの成功から編み出されたものである。 現在ではピアソラと対立した多くの音楽家がこの世を去っていることもあり、タンゴの可能性をローカルな音楽から押し広げた功績はアルゼンチンのしがらみをはるかに超えて、国際的に高く評価され続けている。一方、このような活動の展開はアルゼンチン・タンゴの本流ではない、という厳しい意見も根強く残っている。多くの楽団が「後継者」を多く抱えているのに対して、ピアソラ・スタイルは後継できないという意見もあるが、生前ピアソラが唯一後継者に指名したのはフランスのリシャール・ガリアーノのみである。 エドゥアルド・ロビーラとは対照的に国際的な影響力があまりにも大きすぎたせいでかなりのレコード会社が版権を手放しておらず、正規の復刻作業は遅れており散発的にCD-BOXが発売されてもすでに販売されているCDと重複することが多い。現在はChant du MondeやMembranの選集が比較的安価に手に入るが、Astor Piazzolla – Completo En Philips Y PolydorやClub Tango Argentinoからの復刻版も貴重なピアソラの記録である。 ただ、ピアソラはその絶大な人気のために多くの「書き譜」がピアノ、ギター、バンドネオンほか多くの楽器編成のために残され、ダリエンソとは対照的にピアソラスタイルを表面的に模倣した録音が多くある。近年は改めてピアソラの初期作品(ピアノソナタ)をクラシックの演奏家が挑戦するなど、タンゴの普及という点に関しては世界で最も成功した音楽家といえるだろう。タンゴの音楽家は自分の癖や味を他人に教えないため、書き譜に本当のことが書かれていないことが大半である。(プグリエーセ楽団の譜面にプグリエーセスタイルのイントネーションは一切書かれていなかった。)しかし、ピアソラはこれを几帳面に楽譜化しており、楽譜を読める演奏家ならだれでも弾けるという状況を作った。
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