ビーチクラフトへの移管
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/30 14:08 UTC 版)
「MU-300」の記事における「ビーチクラフトへの移管」の解説
1983年(昭和58年)4月、再建された新MAIは、MU-300のパワーアップ型であるダイヤモンド IIを発表、市場に投入した。ところがこれもさっぱり売れず、開発費がそのまま赤字に上乗せされてしまい、もはや会社の維持は困難であった。このような事態は三菱だけでなく、小型機業界は軒並み経営危機にさらされていた。1985年(昭和60年)12月、小型機の老舗セスナがジェネラル・ダイナミクスに、デ・ハビランド・カナダはボーイングに、ガルフストリーム・エアロスペースはクライスラー(後にジェネラル・ダイナミクス)にそれぞれ買収、といった具合に次々に再編が起こった。 そこでMAIは、巨大防衛企業レイセオンの子会社であるビーチクラフト社と提携し、MU-300シリーズをビーチの巨大な販売網に乗せてもらうことにした。一方のビーチも、膨大な赤字に苦しんだ挙句にレイセオンに買収され、経営の立て直しを図っている中、プロペラ機のみの商品にジェット機が増えることは非常に望ましく、両者の利害は一致した。 だが、不況に喘ぐアメリカ政府は、対日収支の悪化と日本社会の急成長を槍玉に挙げ、不況の要因を日本製の自動車や家電製品、半導体に求め、国民に広がった対日感情悪化を利用した。三菱もすでに、アメリカの航空部品を企業から購入できなくなったり、価格を異常に吊り上げられる被害にあっていた(アメリカで使用する航空機は、アメリカ製の部品が50パーセント以上を占めていなければならない規則、いわゆる「バイアメリカン法」がある)。 この状態で「三菱」を前面に出して販売することはほぼ不可能であるとしたビーチは、提携後にMU-300を全てBEECHJET 400(ビーチジェット400)の名で販売することとした。また、販売済みのMU-2とMU-300のアフターサービスもビーチが引き受けることとなって、MAIの業務は大幅に縮小された。 その後、MAIは段階的に業務をビーチへ移管、テキサス州サンアンジェロの自社工場も閉鎖し、1986年(昭和61年)に米国営業から完全に撤退した。ビーチは日本から送られる機体に、独自の内装を施して販売し、また過去にMAIが販売したMU-300も全てビーチジェット 400として統一した。 三菱はその後もビーチが要求するだけの機体を生産したが、ビーチはMU-300の全ての生産・販売権を要求してきたため、遂に利益があげられなかった三菱は、1988年(昭和63年)2月に設計を含めた生産過程全てをビーチに売り渡す契約に合意し、同年に日本国内での販売も終了した。三菱は小型機業界から完全に撤退し、MU-300は101機の販売で膨大な赤字を生むこととなった。 ところが、1990年(平成2年)にアメリカ空軍がビーチジェット 400Aの練習機型400TをT-1Aジェイホークとして採用したことから話題となり、1990年代には日本が不況に喘ぐ一方、アメリカの空前の好景気に支えられて売上を伸ばした。1994年からは航空自衛隊でも、ビーチから導入した同型機を、「T-400」と称して使用している。なお、ビーチジェット400はその後、やはりレイセオンに買収されたホーカー・ビーチクラフトの販売ラインに組み込まれたことから、ホーカー 400の名称に変更されている。
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