パッタダカルの寺院群
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/02 07:12 UTC 版)
「パッタダカル」の記事における「パッタダカルの寺院群」の解説
6世紀から8世紀にかけてのヒンドゥー教建築は、階段状ないしピラミッド形をした南部の様式と砲弾形ないしトウモロコシ形をした北部の様式が混在し、現在、9寺院が残っており、すべて東に向かって建てられている。また、すべて宇宙の破壊と創造を司るシヴァ神を祀ったものであり、遺跡では寺院が北から南にかけてほぼ年代順に並んでいる。 7代目の王、ヴィジャヤーディティヤ(英語版)(在位:696年 - 733年)の時代に建てられた寺院がサンガメーシュヴァラ寺院である。リンガを祀っており、屋根を階段状に水平に積み上げる南部様式の寺院である。 8代目の王、ヴィクラマーディティヤ2世(英語版)(在位:733/4年 - 744/5年)は、インド半島南東部のタミル人王朝パッラヴァ朝の建築文化が高水準であることに感銘を受け、建築家グンダを招聘して南インドの王領各地から石工や彫刻家たちを多数招いてパッタダカルに多くのヒンドゥー寺院を建設した。この王には、2人の姉妹の妃がおり、姉が建てたローケーシュヴァラ寺院はヴィルーパークシャ寺院に、妹の建てたトゥライローケーシュヴァラ寺院はマリカールジュナ寺院に、それぞれ碑文によって比定されており、このことは建築様式の面からも確かめられている。また、姉の建てた寺院の方が妹の寺院よりも古いことが判明している。 サンガメーシュヴァラ寺院を含む、これら3寺院はいずれもリンガを祀っており、建立者の名にシヴァを意味するイーシュヴァラの語を付して呼称される。寺院に建立者の名を付するのは、比較的一般的なことであったものと考えられる。 なかでも、パッタダカルで最大規模をほこるヴィルーパークシャ寺院は 8世紀にパッラヴァ朝との戦いに勝利して凱旋したヴィクラマーディティヤ2世の栄光を記念するため、王妃ローカ・マハーデーヴィの命で造営され、グンダが設計を担当した寺院である。当時は、上述のとおり王妃の名よりローケーシュヴァラ寺院と呼ばれた。石でできた壮大な寺院の壁には、悪魔を退散させる無数のシヴァ神像が彫刻されており、3段構造のヴィマーナ(本堂)が戦勝を記念して寺院群の中にそびえる。寺院正面にはシヴァ神に仕える牡牛ナンディンの像がある。 マリカールジュナ寺院はヴィルーパークシャ寺院をやや小規模にしたもので、やはり王の戦勝記念に妹の第2王妃が造営したといわれている。いずれも屋根は、水平層を階段状に積み重ねる形式になっている。王妃たちが建てた寺院は、パッラヴァ朝のカーンチプラムの寺院群の影響を強く受けた南部の様式によって建てられ、ともにカーンチのカイラーサナータ寺院(英語版)の影響がみてとれる。これら南部様式の寺院は、のちのラーシュトラクータ朝期につくられたエローラ第16窟のカイラーサナータ寺院にも影響を与えたことで知られる。 北インドの様式に属する寺院には、ガラガナータ寺院、カーシーヴィシュワナータ寺院、ジャンブリンガ寺院、カダシッデーシュワラ寺院があり、のちの北インド様式に特徴的なシカラ(英語版)に似た塔をともなう。これらは、上述の3寺院と隣接して建てられている。 これらとは離れた場所に単独で建てられたのが、パーパナータ寺院であり、北インドの様式に属する。この寺院は、工匠たちによって、柱や天井、壁面いっぱいに『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』などの題材が彫られていることで知られる。天井に彫刻を施したのは前期チャールキヤ朝の建築が初例である。 北部様式の諸寺院を比較すると、パーパナータ寺院では建築の大きさに比較してシカラが貧弱であるのに対し、他の寺院では大きなシカラが強調されており、とりわけカーシーヴィシュワナータ寺院のシカラはたいへん立派なものである。北部様式の諸寺院もまた、いずれも8世紀の建築である。 他に南北両様式混在の寺院もあり、このことは、まだ両様式が完全には確立、分化しておらず、また、チャールキヤ朝歴代の王がインド各地から工匠を集めていたことを意味しているとされる。755年、この地方を約2世紀にわたって支配してきたチャールキヤ朝も、自らの封臣であったラーシュトラクータ朝によって滅ぼされてしまった。それはパッタダカルに続々とヒンドゥー寺院が建設されたわずか10年後のことであった。
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