ニューヨーク市への移動
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「ルーファス・ウィルモット・グリスウォルド」の記事における「ニューヨーク市への移動」の解説
その数年後、グリスウォルドはニューヨーク市に戻った。下の娘はマイアーズ家の世話に任せ、上の娘のエミリーはその母方の親戚に任せていた。グリスウォルドはこの時までに「グランド・ターク(トルコ人)」というニックネームを得ており、1847年夏にはアメリカ女流詩人による詩集を編集する計画を立てていた。女性は男性と同じような「知的な」詩を書けないと考えており、分離する必要があると考えていた。その序文の中で、「2つの性における審美眼の能力の条件はおそらく異なっている、あるいは反対ですらある」と記していた。『アメリカの女流詩人』のために選んだ詩は必ずしも最大級に偉大な例ではなかったが、その代わりに伝統的な道徳や価値観を強調していたので選んでいた。同年、グリスウォルドはその人生の中で「最大の作品」と考えるもの、すなわち広範な伝記的事典の制作を始めた。数年間その仕事に携わって、それについて宣伝していたものの、完成することはなかった。エリザベス・F・エレットがその著書『アメリカ独立戦争の女達』を出版するのも手伝った。彼女がその本でグリスウォルドの援助を認めなかったときには怒った。1848年7月、ロードアイランド州プロビデンスの詩人サラ・ヘレン・ホイットマンを訪問した。ただし、グリスウォルドは眩暈と息切れがしており、ニューヨーク大学にあったアパートを滅多に離れることがなく、アヘンを吸わずに執筆することもできなかった。同年秋、てんかんの発作が起きた。これはその後の人生で何度も経験したものの始まりだった。ある発作の時はブルックリンのフェリーから転落し、危うく溺れるところだった。出版者のジェイムズ・T・フィールズに宛てて、「私は今肉体的にも精神的にも恐ろしい状態にある。これからどうなるのか分からない。...疲れ切ってどっちつかずの生活をし、死んでいく。天国に行くか地獄に行くか」と書いていた。1849年、親友になっていたチャールズ・フェノ・ホフマンが精神病院に入れられたときには、さらに問題になった。 グリスウォルドは様々な刊行物に、専属でもフリーランスでも編集と文芸評論の投稿を続けた。1850年7月1日から1852年4月1日号まで22か月の「インターナショナル・マガジン」への投稿もあった。そこでは、エリザベス・オークス・スミス、メアリー・E・ヒューイット、ジョン・R・トンプソンなど寄稿者との作業もあった。1855年11月10日、「クライテリオン」という雑誌で、ウォルト・ホイットマンの『草の葉』初版に関する匿名の書評を掲載し、「いかなる者の空想もこのように愚かな腐敗を確信できると想像するのは不可能である」と記した。グリスウォルドはホイットマンが「最も下品な想像と最も恥ずべき免許」の罪がある、「品位を下げ、不愉快な官能」であると告発した。ホイットマンの詩に触れて、泥を集めて低きに置いている。このように酷く猥褻なものに打ち勝つ力を持たねばならない、と言っていた。ホイットマンは後に『草の葉』の新版にグリスウォルドの書評を加えた。グリスウォルドはその書評をラテン語の言葉で「恐ろしい罪、クリスチャンの間でその名を出せない」で終えており、そてはキリスト教徒がソドミー(男色)を非難する時に長く使われてきた決まり文句だった。グリスウォルドはホイットマンの詩の中で男性同士のエロティックな願望や行動という主題を公然と指摘し、強調したことでは、19世紀で最初の者となった。ホイットマンの詩についてそれ以上の指摘は19世紀も終盤になってからのことだった。
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