ニューヨーク市の占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/18 05:59 UTC 版)
「ニューヨーク・ニュージャージー方面作戦」の記事における「ニューヨーク市の占領」の解説
詳細は「スタテン島和平協議」を参照 ハウ兄弟はイギリスの議会から休戦の使者としての権限を認められてきており、紛争を平和的に解決する限定付きの権限があった。イギリス国王ジョージ3世は休戦の可能性について楽観的ではなく、「私はやってみるべきだと今も思う。あらゆる活発な行動を絶え間なく実行すべきだ」と語っていた。ハウ兄弟の権限は「一般的および特別の恩赦」を認め、「国王の臣下である者と協議すること」に限られていた。7月14日、ハウ提督はこれらの権限を遂行するために、港の向こうに「ジョージ・ワシントン殿」と宛てた手紙を持たせた使者を派遣した。ワシントンの副官ジョセフ・リードはそのような肩書きの者はこの軍隊に居ないとその使者に丁重に返答した。ハウ提督の副官は「宛先の細部」で手紙を届けることを妨げるべきではないと記し、ハウは受け取り拒否に見るからに困っていたと言われていた。2回目の手紙は「ジョージ・ワシントン殿、等」と宛てられており、同じように受け取りを拒絶された。ただし、その使者はワシントンがハウの副官の一人と会う用意があると告げられた。7月20日に行われた会談では、反逆者(アメリカ独立推進者)は恩赦を求めるような悪事を働いたわけではないので、ハウ兄弟が認められている限定付きの権限は何の用もなさないとワシントンが指摘し、物別れに終わった。 8月遅く、イギリス軍は約22,000名の軍(ドイツ人傭兵9,000名を含む)をロングアイランドに輸送した。8月27日のロングアイランドの戦いでは、イギリス軍が大陸軍陣地の側面を衝いてブルックリン・ハイツの砦まで後退させた。ハウは砦に対する包囲戦の手配を始めたが、ワシントンは夜陰に紛れてまだ抑えられていなかった後面のイースト川を渡ってマンハッタン島までの撤退を巧みに成功させた。ハウはその陣地を固めるために一旦行軍を停止させ、次の作戦を検討した。 ロングアイランドの戦いの後で大陸軍のジョン・サリバン将軍が捕らえられた。ハウ提督はサリバンに、フィラデルフィアの大陸会議に宛てた伝言を届けるよう説得し、仮釈放で解放した。ワシントンもそれを認めたので、9月2日にサリバンは大陸会議に行って、ハウ達が交渉を望んでおり、実際に与えられているものよりも幅広い権限を与えられていると語った。このことで急進的とは見られたくなかった大陸会議では、申し出を直ぐに拒否することがどのような事態になるかという外交上の議論が生じた。その結果大陸会議はおそらくは何も生まないだろうと考えていたハウとの協議に代表団を送ることに同意した。9月11日、ハウ兄弟はスタテン島和平協議でジョン・アダムズ、ベンジャミン・フランクリンおよびエドワード・ラトリッジと会見した。その結果はアメリカ側が予想していた通りとなった。 こうしている間に、以前に大陸会議からニューヨーク市を死守するよう命令されていたワシントンは、マンハッタン島で自軍が包囲される恐れがあるので、次から次と罠から抜け出す方法を考えていた。北への脱出路を確保するために、当時はローワーマンハッタンを占めているだけだったニューヨーク市内には5,000名の部隊を置き、残りの部隊を率いてハーレムハイツに移動した。このとき、潜水艇タートルを使ってイギリス海軍の旗艦HMSイーグルを沈めようとする新しい試みが行われたが失敗した。これは戦争に潜水艦が使われた最初の記録となった。 イギリス軍はロングアイランドを取った後で、マンハッタンを取るために動いた。9月15日、ハウは約12,000名の部隊をローワー・マンハッタンに上陸させ(キップス湾の上陸戦)、素早くニューヨーク市を占領した。大陸軍はハーレム・ハイツまで後退し、そこで翌日に小競り合い(ハーレムハイツの戦い)があったが、その陣地は確保した。ハウはワシントン軍の強固な陣地に対する2回目の攻撃でも側面を衝く戦術を選んだ。10月18日にウェストチェスター郡に幾らかの抵抗を受けながらも上陸した部隊を使って再度ワシントン軍を取り囲もうとした。ワシントンはその動きに対抗するために軍の大半をホワイトプレインズまで後退させ、10月28日のホワイトプレインズの戦いの後に、さらに北に後退した。このことでアッパーマンハッタンに残っていた大陸軍の部隊が孤立したので、ハウはマンハッタンに戻り、11月半ばにはワシントン砦を占領して守備隊約3,000名を捕虜に取った。その4日後、ワシントン砦からハドソン川を隔てて対岸のリー砦も占領した。ワシントンはその軍隊の大半を率いてハドソン川を渡りニュージャージーに入ったが、イギリス軍が攻撃的に進軍してきたために更なる後退を強いられた。 ハウ将軍はニューヨーク港周辺のイギリス軍の位置づけを確固としたものにした後で、その部下であるヘンリー・クリントンとヒュー・パーシーの2人に6,000名の部隊を付けて、ロードアイランドのニューポート占領のために派遣した。この部隊は12月8日に抵抗されることなくニューポートを占領した。さらにチャールズ・コーンウォリス将軍にはワシントン軍を追ってニュージャージーに向かわせた。12月初旬、大陸軍はデラウェア川を渡ってペンシルベニアに退却した。
※この「ニューヨーク市の占領」の解説は、「ニューヨーク・ニュージャージー方面作戦」の解説の一部です。
「ニューヨーク市の占領」を含む「ニューヨーク・ニュージャージー方面作戦」の記事については、「ニューヨーク・ニュージャージー方面作戦」の概要を参照ください。
- ニューヨーク市の占領のページへのリンク