ニューヨーク市の明け渡し
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 17:22 UTC 版)
「ガイ・カールトン」の記事における「ニューヨーク市の明け渡し」の解説
1782年8月、カールトンはイギリスがアメリカの独立を認める用意があることを知らされた。カールトンはその任務からの解放を求めた。この報せを効いた13植民地のロイヤリストが大挙して脱出して来るようになった。カールトンは彼等がアメリカ合衆国の外で再定着できるよう最善の努力を払った。独立戦争の間にイギリスのために従軍することと引き換えに解放を約束されていた奴隷達に関して、カールトンはその高潔な行動が正当なものであるという賛同を得たことはなかった。パリ条約で取り決められた条件の実行手配のためにジョージ・ワシントン将軍と会見したとき、当時カールトンが指揮するイギリス軍が占領し、ロイヤリストや奴隷が多くいたニューヨーク市の明け渡しについては、明け渡し時に人的資源をアメリカに引き渡すことを拒んだ。その代わりに登記簿に則り、「イギリスの宣言と約束で解放された奴隷についてはその所有者に賠償する」ことを提案した。 カールトンは以前の政策あるいは国の名誉に一貫しているいかなる条項も変えられないことを指摘した。また黒人について求償できるのは裁判で奴隷も所有者も納得した場合のみとすることを付け加えた。黒人の自由についてイギリスの政策を守らないことは信念の放棄であると述べ、彼等を除外することが条約不履行であるというならば、イギリス政府によってその賠償が行われることになると宣言した。そのような不測の事態に備えるために、故国を離れる黒人全てにその名前、年齢、職業および元主人の名前を登録させた。アメリカ側はこれに同意したが、出来る限り賠償は支払われないように決められた。明け渡しに加わった奴隷達の幾らかは後にノバスコシアからシエラレオネのフリータウンに送られた。ワシントンはカールトンの行動に満足してはおらず、彼に宛てて「このやり方は条約に書かれていることやその精神から全く異なっているが、特殊な点はさておき、この決定を我々の尊敬すべき主権者に委ね、貴方に関して同意に至る用意があることを表明するのが私の義務と考える。すなわち今後ともアメリカ国民の黒人など財産を貴方が持ち出さないようにする適切な手段を採ることである」と記した。 1783年11月28日、ニューヨーク市明け渡しが行われ、カールトンはイングランドに戻った。 ストラッチャーのジョン・キャンベルがカールトンの跡を継いで北アメリカ総司令官になった。 カールトン語録:アメリカを離れたいと思うあらゆる男、女、子供が安全にイギリスの地を踏むまでは、任務を全うする。
※この「ニューヨーク市の明け渡し」の解説は、「ガイ・カールトン」の解説の一部です。
「ニューヨーク市の明け渡し」を含む「ガイ・カールトン」の記事については、「ガイ・カールトン」の概要を参照ください。
- ニューヨーク市の明け渡しのページへのリンク