ナチズムとスターリニズムの間で
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 06:06 UTC 版)
「アーサー・ケストラー」の記事における「ナチズムとスターリニズムの間で」の解説
パレスチナへの入植は思わしい結果に繋がらず、現地でドイツ最大の通信社ウルシュタインの職を得たのがきっかけとなり1929年にはフランス支局の特派員となった。翌年、自然科学についての知識の深さを認められ、科学欄編集長としてベルリン本社へ配属され、ここでナチスの台頭に直面する。以降、ホロコーストを題材とした小説『出発と到着』(1943)[4]の執筆など、終戦に至るまで一貫したナチス批判を繰り広げることになる。同時期、マルクス・エンゲルスの思想に出会いドイツ共産党に入党する。ほどなくウルシュタイン社を解雇され国際革命作家同盟の招きでソビエトに滞在したが、その全体主義的独裁体制を目の当たりにして、1933年にフランスに亡命することとなった。以後、スペイン内戦までの期間を食事にも事欠くような生活を送る。 スペイン内戦では、共産党組織のつてを頼り、英ニュース・クロニクル紙の特派員としてフランコの反乱軍の支配地域に二度の潜入報道を試みる。一度目は入国直後に身分が発覚、からくも脱出したが、フランコ軍とナチスの協力関係を暴露し、一定の成果を収める。これによってフランコ軍の怒りを買ったケストラーは、二度目の潜入時に捕らえられ、死刑の宣告を受けて四ヶ月の拘留をされるもイギリス政府の介入で救出されることとなった。この体験は『スペインの遺書』(1937)[1]として発表している。 イギリスでの短い休養を経てフランスに舞い戻ったケストラーは、第二次世界大戦勃発でヴィシー政権により反ナチス的人物と見なされ南仏のル・ヴェルネ収容所に収監されることになる。ケストラーはフランス外人部隊に配属されることによって収容所から解放され、まもなく逃亡してイギリスに帰還する。この経緯は『地上の屑』(1941)[2]として発表されている。以後、イギリス軍に参加するなどして終戦までを送る。 『真昼の暗黒』(1940)[3]では、ソビエトへの移住経験やスターリンの粛清を逃れて来た知人の証言を元に、スターリン体制の非人道的裁判を小説化している。この小説はソビエトへの幻想の未だ消え去らない西欧知識層に衝撃を与え、一般にケストラーの最大の業績とされる。この時期にケストラーはドイツ共産党に対して離党通告を送り、トロツキスト(広義での)に転向する。 1945年、ケストラーはイギリスに帰化するが、その後しばらくをフランスで過ごすことになる。この頃のケストラーはボーヴォワールの私小説の登場人物にもなっていると言われる。
※この「ナチズムとスターリニズムの間で」の解説は、「アーサー・ケストラー」の解説の一部です。
「ナチズムとスターリニズムの間で」を含む「アーサー・ケストラー」の記事については、「アーサー・ケストラー」の概要を参照ください。
- ナチズムとスターリニズムの間でのページへのリンク