ドナー峠とは? わかりやすく解説

ドナー峠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/18 10:05 UTC 版)

ドナー峠
ドナー峠から望むドナー湖
所在地 アメリカ合衆国
カリフォルニア州 ネバダ郡
座標 北緯39度18分52秒 西経120度19分37秒 / 北緯39.31444度 西経120.32694度 / 39.31444; -120.32694座標: 北緯39度18分52秒 西経120度19分37秒 / 北緯39.31444度 西経120.32694度 / 39.31444; -120.32694
標高 2151[1] m
山系 シエラネバダ山脈
通過路 カリフォルニア・トレイル
オーバーランド・ルート英語版
リンカーン・ハイウェイ
ヴィクトリー・ハイウェイ英語版
アメリカ国道40号線(ルート40) (-1967年)
州間高速道路80号線(I-80)(近傍通過)
ドナー峠
ドナー峠 (アメリカ合衆国)
プロジェクト 地形
テンプレートを表示

ドナー峠(ドナーとうげ、英語: Donner Pass)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ネバダ郡に所在する標高7,056ft(2,151m[1]シエラネバダ山脈の北部の峠であり、同郡の町・トラッキーの西約9マイル(約14km)に位置する。峠を下ると、ドナー湖ドナー・メモリアル州立公園英語版がある。シエラネバダ山脈に所在する多数の峠と同様、この峠も東側からは急峻な地形である一方、西側からは穏やかな勾配となっている。

この峠は、カリフォルニア・トレイル最初の大陸横断鉄道オーバーランド・ルート英語版リンカーン・ハイウェイヴィクトリー・ハイウェイ英語版[注釈 1]が通過しており、また近傍を州間高速道路80号線(I-80)が通過している。この峠は、1846年の冬にこの峠の近くで越冬、多数の餓死者を出し、生存者も食人行為に至らざるを得なかった、西部開拓時代の悲劇で知られるドナー隊に由来している。

今日では、この地域は幾つかの数珠湖英語版スキーリゾート[注釈 2]が所在し、活発なレクリエーション・コミュニティの主要地である。この地域の恒久的なコミュニティには、キングヴェール英語版ソーダ・スプリングス英語版があり、ドナー峠の下にあるドナー湖周囲のコミュニティ同様に大きなコミュニティとなっている。

歴史

東方より、カリフォルニアに至るため、開拓者たちはシエラネバダ山脈馬車などで越えて来た。1844年スティーブンズ=タウンゼント=マーフィー隊英語版トラッキー川英語版に沿ってシエラネバダ山脈へと分け入った。今日、ドナー湖と呼ばれる湖の端に至った際、彼らは山脈の中の鞍部を発見し、その鞍部が初期の移住者達が使用する道となった[2]。この峠は、後にカリフォルニアを目指した移住者のグループに因んで名付けられることとなる。1846年11月初旬、ドナー隊は豪雪によって、進むことも戻ることもできなくなり、シエラネバダ山脈の山々の東側で越冬せざるを得ない状況となった。81人の移住者達の内、45人が生存しカリフォルニアにたどり着くことができたが[3]、彼らの内の何人かは生きるために食人行為へと至った[4][5]

1952年1月13日、222人の乗員乗客が乗る列車がドナー峠の西約27㎞に位置するユバ峠英語版の二期線の第35号トンネルに近接する一期線、凡そ176.5MPの位置で立ち往生した。サザン・パシフィック鉄道の旅客列車「シティ・オブ・サンフランシスコ」は、吹雪によって大量の雪が積もる中、西に向かってこの峠道を通過しようとしたものの、進むことも戻ることも出来なくなってしまったのである。乗員乗客は、近隣の自動車道が自動車による救助に十分な除雪が成されるまで3日間もの間、その場所で過ごすことを余儀なくされた。彼らは、救助隊の自動車で数マイル先のニャック・ロッジへと運ばれた[6]

セントラル・パシフィック鉄道

1993年に廃止された路線の写真(デジタル修正有)

1868年春、シエラネバダ山脈は、主にセントラル・パシフィック鉄道英語: Central Pacific Railroad、CPRR)の中国人労働者達によって、遂に「攻略」された。これには、約3年にも渡って花崗岩掘削発破を続け、ドナー峠下に第6号トンネル[注釈 3]を貫通させた。これによって、旅行者団体の商業輸送の確立と、初めてシエラネバダ山脈を越える大量輸送が実現された。最初の線路敷設ルート調査の後、セントラル・パシフィック鉄道初代チーフエンジニアセオドア・D・ジュッダ英語版英語: Theodore D. Judah, 1826-1863)によって提案された計画では、4本のトンネルの掘削と数マイルに渡るスノーシェッドの設置、高さ75フィート(約23m)の手製の石造りの擁壁[注釈 4]がドナー山頂を突破するために必要であるとされた[7]。これは、当初のサクラメント-オグデン間を結ぶセントラル・パシフィック鉄道のルートを構成するルートの中で、最も困難な工学、建設の挑戦であった[8]

セントラル・パシフィック鉄道のエンジニア、L. M. クレメント(左)とT. D. ジュッダ

主に、セントラル・パシフィック鉄道のチーフ・アシスタント・エンジニアであったルイス・M・クレメント(英語: Lewis M. Clement, 1837-1914)[9]の現場での指示により、個人により設計、建設された最初(一番線)の山頂部分は、初めてセントラル・パシフィック鉄道で、サミット・トンネルを通過する旅客車両を運行した1868年6月18日から常用され、1993年サザン・パシフィック鉄道[注釈 5]が、一期線の最高点前後約6.7マイル (10.7km)の区間を廃止するまで使用され続けた。なお、この時廃止された区間は、ノーデン・コンプレックス(英語: Norden complex、26号シェッド、MP192.1)と47号シェッド(MP198.8)に覆われた交差路の間の区間であった。この地点は、エダー英語版に位置する古い跨線橋の東1マイル(1.6km)の位置にある。廃止によって、全ての列車が二期線を通過することとなり、線路の最高点は、ドナー峠の南、約1マイル(1.6km)を通過しており、ソーダ・スプリングス英語版とエダーの間に位置するジュッダ山英語版を貫く、長さ10,322フィート(3,146m)の41号トンネル英語版を通過している。サザン・パシフィック鉄道は、過酷なシエラネバダ山脈の冬季期間を考慮して、二期線と41号トンネル[注釈 6]を維持するほうが、一期線の峠前後のトンネルとスノーシェッドをメンテナンスするよりも容易、かつ低コストであると結論付けたことで、一期線の廃止を決断した[10]

アジアおよび太平洋地域との北米貿易の急速な拡大に対応するために、オークランド港英語版で行われている主な拡張工事に関連して、港との物流を支える鉄道を運営するユニオン・パシフィック鉄道は、「二つ目の路線の建設と、カリフォルニアとその他の地域とをつなぐドナー峠のトンネルの貨物列車の通行可能車両高の拡大」[11]が求められた。これは、41号トンネルに並行する新しいトンネルか、ノーデン・コンプレックスと47号シェッドの間の一期線の置き換えが求められていた。このどちらの方法も、輸送容量を増やし、ノーデン・コンプレックスと47号シェッドの間の全ての東西方向の交通を単線の線路で交通させなければならないため発生している遅延を大幅に改善する方法である[注釈 7]。このシエラネバダの山岳区間の改良は、2009年11月に完了した。この改良では、ロックリン英語版トラッキーの間の15本の古いトンネルがある18,000フィート(5.5km)の区間で、トンネル内空の拡大と、30マイル(48km)の区間の信号が列車集中制御装置(CTC)へと改善されたが、ドナー峠の一期線の区間が復旧することはなかった。これ以来、フルハイト、もしくは20フィート2インチ(6.15m)の2段積載貨物列車がドナー峠を通行できるようになった。ボウマンとコルファクスの間の二期線のトンネルについては拡張されておらず、この間の多くの列車は、進行方向に拠らずトンネルの無い、古い一期線を使わなければならない [12]

セントラル・パシフィック鉄道6号トンネルの上から望むドナー・サミット周辺のパノラマ写真。ドナー湖と右の奥にドナー峰英語版が写っている。
ドナー峠におけるセントラル・パシフィック鉄道の当初のルート。

自動車道

州間高速道路80号線に設置されているドナー・サミットを示す立看板
州間高速道路80号線のヴェルディからローゼンヴィルの間100マイルの区間の標高

最初のアメリカ合衆国の大陸横断道であるリンカーン・ハイウェイは、ドナー峠を通過しており、後にヴィクトリー・ハイウェイ英語版の一部ともなった。1960年代初頭には、州間高速道路80号線(I-80)がこの地域でも建設された。州間高速道路80号線は、シエラネバダ山脈を通過する際は、凡そアメリカ国道40号線と並行するルートであったが、シエラネバダ山脈の通過する頂は、ドナー峠の北約2マイル(3.2km)に位置するオイアー・サドル(英語: Euer Saddle)になっている。オイアー・サドルは、カリフォルニア州運輸局英語版には、標高7,240フィート(2,210m)の「ドナー・サミット英語: Donner Summit)」と呼ばれており、ボリアル・ホテル出口の先の頂上、州間高速道路80号線の南側に看板が立てられている[13]

ドナー・サミットはドナー峠と比較して、約150フィート(46m)高い位置にあるが、広く、穏やかな傾斜であり、屈曲のきついドナー峠道路では満たすことのできない州間高速道路標準英語版を満たして建設することができた。この区間の縦断勾配は、30マイル(48km)で3~6%程度である[14]。1920年代建設された古い高速道路は、州間高速道路80号線に主要道路の座を譲ったものの、風光明媚な道路として、現在でも保存されている。

気候

ドナー峠における冬季の気候は、過酷なものである。降水量の平均は、年51.6インチ(1,310mm)である。カリフォルニアは、地中海性気候であり、降水量の多くは、冬季にとして記録されている[15]。ドナー峠の降雪量は、平均年411,5インチ(10.45m)であり、アメリカ合衆国全体でも最も雪深い地域の一つである。1880年から4回、ドナー・サミットにおける降雪量は775インチ(19.69m)に達したことがあり、最も降雪量が多かった1938年1952年には800インチ(20.32m)の降雪が記録されている[16]。この豪雪を活用して、ボリアル・マウンテン・リゾート英語版が北に建設されている。タホ湖周囲の地域のスキーリゾートは、1シーズン当たり平均300~500インチ(7.62~12.70m)の降雪がある。ドナー峠の風も強烈なものとなりやすく、冬季擾乱英語版の間においては、突風の風速は100マイル/h(160km/h=約44.4m/s)が普通である。この地域の冬の気温は、毎年何度かは0(-17.8)を下回る[注釈 8]

1846年から1847年にかけての冬は、特に厳しい気象であり、この気象状況がドナー隊の悲劇の中でも最も重要な要因の一つであると一般的に言及される[要出典]

レクリエーション

ドナー峠の頂上近くのシュガー・ボウル・スキー・リゾート英語版で滑走するスノーボーダー

ドナー峠周囲では、夏と冬の期間、様々な種類のレクリエーション、ライフスタイルスポーツが行われている。例えば、トレッキングアルペンスキークロスカントリースキーロッククライミングアイスクライミングが行われる。セントラル・パシフィック鉄道によって建設された最初のトンネルは、大量の落書き文化の本拠地である。この地域は、1990年代初期にフォール・ライン・フィルムズ(英語: Fall Line Films、FLM)とスタンダード・フィルムズ(英語: Standard Films)によって作成されたスノーボード映像によって世界的に著名となった。この地域は、フロントカントリーとバックカントリー地域に簡単にアクセスできるのである。しかしながら、この名声と古いアメリカ国道40号線や近隣のシュガー・ボウル・スキー・リゾート英語版からの容易なアクセス性は、多数の雪崩による死者を生み出し、その中にはプロスノーボーダーのジャミル・カーンも含まれている[17]

大衆文化

アルバート・ビアスタット作の『ドナー湖の眺め(英語: View of Donner Lake)』(1871-72)は、ドナー峠近隣からの、題名となった湖の眺めを描画している[18]

シャイニング英語: The Shining)』では、ドナー峠をドライブするシーンで、登場人物のジャック・トランスが、彼の家族にドナー隊の物語を語っている[19]

ドナー峠は、『ザ・ヒストリー・チャンネル』のスペシャル・エピソード「アメリカ: ザ・ストーリー・オブ・アス英語版」第3回:"Westward"にて採り上げられた。同様にナショナル ジオグラフィックのシリーズ「ヘル・オン・ザ・ハイウェイ(英語: Hell on the Highway)」で採り上げられ、この地域で働くレッカー及び回収会社の活動がフォーカスされている[20]

注釈

  1. ^ リンカーン・ハイウェイとヴィクトリー・ハイウェイの双方とも、後にアメリカ国道40号線(ルート40)となり、現在はドナー峠道路(英語: Donner Pass Road)となった。
  2. ^ 周囲にはドナー・スキー・ランチ英語版ボリアル・マウンテン・リゾート英語版シュガー・ボウル・スキー・リゾート英語版がある。
  3. ^ 現在では、サミット・トンネル(英語: the Summit Tunnel)としても知られている。
  4. ^ 今日では、中国人作業員の貢献によるチャイニーズ・ウォール(またはチャイナ・ウォール)として知られている。
  5. ^ 1993年当時。セントラル・パシフィック鉄道が建設したオークランド-オグデン線を1996年ユニオン・パシフィック鉄道買収されるまで運営していた。
  6. ^ 二期線と41号トンネルの山岳区間は、最終的に複線で建設され、1925年に開業した。
  7. ^ ボトルネックによる遅延の問題を完全に解決するためには、エミグラント・ギャップ英語版にある9号分岐器(MP171.9)とシスコの西にある10号シェッド(MP179.0)の間の単線区間7.1マイル(11.4km)の区間も、複線にする必要がある。
  8. ^ これまでに、カリフォルニア全体で記録された最低気温は1937年1月に、トラッキーの西にあるボカ英語版で記録された-45℉(-42.8℃)である[要出典]

脚注

  1. ^ a b Gannett, Henry. A Dictionary of Altitudes in the United States (3rd Edition), Bulletin of the U.S. Geological Survey, No. 160, Department of the Interior, Washington, D.C., 1899. p. 54
  2. ^ Clegg, Lee (1994年). “Opening of the California Trail”. High Sierra History. 2007年2月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年8月14日閲覧。
  3. ^ Donner Party: Statistics”. Utah Crossroads. 2012年10月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年9月16日閲覧。
  4. ^ Westward”. America The Story Of Us. History Channel. 2022年8月14日閲覧。
  5. ^ Stewart, George R. (1963). Ordeal by Hunger: The Story of the Donner Party (Third ed.). New York: Houghton-Mifflin. pp. 132, et seq 
  6. ^ Bull, Howard W. (January 1953). “The Case of the Stranded Streamliner”. Trains & Travel 13 (3). http://cprr.org/Museum/Stranded_Streamliner_1952/index.html. 
  7. ^ CPRR Summit Tunnel (#6), Tunnels #7 & #8, Snowsheds, Chinese Walls, Donner Trail, and Dutch Flat Donner – Lake Wagon Road at Donner Pass”. Central Pacific Railroad Photographic History Museum (2014年). 2022年8月14日閲覧。
  8. ^ Gilliss, John R. (1870). “Tunnels of the Pacific Railroad”. Van Nostrand's Eclectic Engineering Magazine II: 418–423. http://www.cprr.org/Museum/Tunnels.html. 
  9. ^ Lewis Metzler Clement: A Pioneer of the Central Pacific Railroad”. Central Pacific Railroad Photographic History Museum. 2022年8月14日閲覧。
  10. ^ Cooper, Bruce C. (2003年8月). “Summit Tunnel & Donner Pass”. CPRR.org. 2022年8月14日閲覧。
  11. ^ Newsroom”. Port of Oakland. 2010年11月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年5月14日閲覧。
  12. ^ Vantuono, William C. (November 24, 2009). “Doublestacks on Donner Pass”. Railway Age. http://www.railwayage.com/index.php/news/doublestacks-on-donner-pass.html. 
  13. ^ Donner Summit”. ca.gov. 2017年1月5日閲覧。
  14. ^ Grade Climb & Descent Considerations”. www.gonefcon.com. 2017年8月14日閲覧。
  15. ^ “Climate Summary of Donner Summit, California 1870–2001”. Journal of the Sierra College Natural History Museum 2 (1). (Winter 2009). http://www.sierracollege.edu/ejournals/jscnhm/v2n1/climatesummary.html. 
  16. ^ Donner Summit Snowfall and Snowpack 1879–2011”. Central Sierra Snow Laboratory. University of California, Berkeley. 2022年8月14日閲覧。
  17. ^ Pro Snowboarder Jamil Khan Killed by Avalanche”. Mountain Zone News (1998年2月13日). 2010年5月14日閲覧。
  18. ^ Glenda Moore. “Albert Bierstadt Paintings”. Xmission.com. 2010年5月14日閲覧。
  19. ^ Donner Party”. Youtube.com (2013年5月1日). 2021年12月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月23日閲覧。
  20. ^ Saracevic, Al (2012年11月27日). “Hell on the Highway: The Story of I-80 at Donner Pass”. 2017年9月9日閲覧。
  • Powell, Margie Powell (2003). Donner Summit: A Brief History. Grass Valley, CA: Cottage Hill Publishing. ISBN 0-9658240-4-7 

外部リンク


ドナー峠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/27 15:21 UTC 版)

ドナー隊」の記事における「ドナー峠」の解説

ワサッチ山脈よりもはるかに険しと言われる最後山脈越え前にして、寄せ集め一行は、そのまま進むか、家畜休ませるかの選択迫られた。時は10月20日で、一同は峠が降り込められるのは11月中旬からだと聞かされていた。10月25日ごろ、ハンボルト川でウォルフィンガーが何者かに殺される。後の調べでケスバーグ、ラインハート、スピッツァーらに殺害されたと思われる10月30日、ウィリアム・フォスターの銃が装填作業中に暴発してウィリアム・パイクを死なせる事故起き、これに押されかのように一行一家族また一家族と出発していった。一番手はブリーン家、次にキースバーグ家、スタントンリード家、グレイブス家、マーフィー家続いたドナー家は最後尾についた荒れた地形を数マイル進んだところでドナー家の馬車のうち1台が車軸折ってしまい、代替品作るためジェイコブジョージ入ったその際車軸を削る作業中にジョージ・ドナー誤って手を切ったが、この時点では浅い傷に思えた降り始めた。ブリーン家はトラッキー湖(現・ドナー湖)に向けて高低差1,000フィート300メートル)の「巨大な垂直に近い斜面」を登り頂上まで3マイル(4.8キロ)の地点到達して別の開拓民一団2年前に建てていた小屋付近野営したエディ家とキースバーグ家がブリーン家に合流し、ともに峠を越えようとしたが、すでに積雪5 - 10フィート1.5 - 3メートル)あって道を判別することができなかった。彼らはトラッキー湖畔引き返し翌日までにドナー家を除く全家族が付近に集まり野営したドナー家のみは後方5マイル(8キロ)、片道半日分ほどの地点にいた。以後数日間にわたり、馬車家畜とともに峠を越えよう幾度か試みたがすべて失敗した

※この「ドナー峠」の解説は、「ドナー隊」の解説の一部です。
「ドナー峠」を含む「ドナー隊」の記事については、「ドナー隊」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ドナー峠」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ドナー峠」の関連用語

ドナー峠のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ドナー峠のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのドナー峠 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのドナー隊 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS