ルートの選別と命名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/05 17:45 UTC 版)
「リンカーン・ハイウェイ」の記事における「ルートの選別と命名」の解説
リンカーン・ハイウェイ協会は、ニューヨーク市からサンフランシスコ市まで最良で最短のルートを選別する必要性があった。ミシシッピ川より東は、比較的密な道路網があったので選別は容易だった。西部のルートを偵察するために、協会の「トレイル・ブレーザー」ツアーが組まれ、1913年7月1日、17台の車と2台のトラックでインディアナポリスを出発した。これは協会本部がデトロイトに設立されたのと同じ日だった。アイオワ州の泥道、ネバダ州とユタ州の砂道、加熱したラジエーター、水で溢れた道、車軸の損傷を経験し、新しいハイウェイができるチャンスだと思った町からは全て熱烈歓迎があり、34日後にサンフランシスコ市マーケット通りで数千人の観衆を前にパレードを行った。 「トレイル・ブレーザー」は列車でインディアナポリスに戻り、数週間後の9月14日にルートが発表された。協会の指導者、特にパッカードの社長ヘンリー・ジョイは、できるだけ直線的なルートを望み、発表された3,389マイル (5,454 km) は、必ずしも「トレイル・ブレーザー」が辿ったルートとは一致していなかった。「トレイル・ブレーザー」の一行を歓迎し、それが通ったことは町をハイウェイが通ることだと考えていた、特にコロラド州とカンザス州の多くの町を落胆させた。 選別されたルートの半分以上は改良道路ではなかった。時間の経過と共に部分的な改良が加えられ、ルートの総延長は約250マイル (400 km) 短縮された。幾つかの部分は歴史的な道路を辿っている。 1675年以前にニュージャージーのオランダ人開拓者が造った道路 1796にできたランカスター・ターンパイク、ペンシルベニア州 チェンバーズバーグ・ターンパイク、南北戦争の時に北バージニア軍の大半がゲティスバーグに向かった道、その一部がリンカーン・ハイウェイになった フレンチ・インディアン戦争の1757年にジョン・フォーブス将軍が建設したイギリス軍道路、チェンバーズバーグからピッツバーグまで、後にピッツバーグ道路およびコーンストーガ道路と呼ばれた リッジ道路と呼ばれた古代のインディアン道、オハイオ州の一部 モルモン・トレイルの一部 グレート・ソーク・トレイル、インディアナ州北西部のインディアン道 チェロキー・トレイル、オーバーランド・トレイル、ポニー・エクスプレスの一部 シエラネバダ山脈を越えるドナー峠、1846年のドナー隊の故事に因んで名付けられた シエラネバダ山脈代替路、エコー・サミットで越え、駅馬車ルートを辿る 協会は1913年10月31日にこのルートを命名した。ルート沿い13州の多くの町で、かがり火、花火、コンサート、パレード、ストリートダンスが催された。アイオワ州での祝賀会の時に、州技師官のトマス・H・マクドナルドは、「この地域社会で道路建設のエネルギーが初めて溢れ出たとき」だと感じたと語った。さらに放射状のルートで大陸横断ハイウェイの体系を創設することにも言及した。1919年、マクドナルドは公共道路局のコミッショナーとなり、アイゼンハワーの州間防衛ハイウェイ体系の初期段階を監督して、1953年に辞任するまで続けた。
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