ドックランズ再開発
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ドック閉鎖に伴い、再開発が急務となったが、計画を完成させるのに10年、実行に移すのにさらに10年がかかった。1970年代から作業は始まったが、当該地域の地主がグレーター・ロンドン・カウンシル、ロンドン港湾局、電気、ガス、鉄道、5つの区などにわたり問題が複雑になっていた。 そこで1981年、イギリス環境省によってロンドン・ドックランズ再開発公社(the London Docklands Development Corporation 、LDDC)が設立された。これは政府によって作られた会社であり、ドックランズの土地取得と整地の強大な権限を有していた。もう一つの重要な政策は1982年策定のエンタープライズ・ゾーンであり、該当地域内のビジネス活動には不動産税が免除されるほかさまざまな土地開発の簡略化などインセンティブが与えられた。これによってドックランズ内での開発は企業をひきつけ、一種のブームを起こした。LDDCの政策は、大企業やその勤務者向けの上質なビジネスセンター開発に偏り、手ごろな住宅の開発などを怠っているとの批判を生み、もとからの下町住民には自分たちのニーズは無視されているとの不満を呼んだが、LDDCの開発は(さまざまな異論が残るものの)ドックランズを大胆に変貌させた。1998年、ドックランズの管理が地元の区に戻り、LDDCの活動は終わった。 1980年代から1990年代のLDDCによる巨大開発計画は、ドックランズの大部分を住居・ビジネス・商業・軽工業の複合体に転換させた。そのもっともわかりやすいシンボルが、ドッグ島中心部のイギリス一の超高層ビル群やロンドンの新金融街形成に代表される、野心的なカナリー・ワーフ計画である。しかし、近くのヘロン・キーズが低密度のオフィス地区として再開発され、同じカナリー・ワーフでもライムハウス地区などで同様の開発が進んでいたにもかかわらず、カナリー・ワーフ計画のような大規模開発にどの程度の見通しを立てていたかは定かではない。カナリー・ワーフは1990年代初頭の不動産不況に巻き込まれ、竣工当時テナントが入らない上に、ほかにビルが建たず更地だらけになるなどLDDCにとってトラブルの連続であり開発に数年の遅れをもたらした。不動産業者も同様に、賃貸も販売もできない不動産を抱えるなど負担を抱えた。超高層ビル「ワン・カナダ・スクエア」を建設するなどカナリー・ワーフの再開発に積極的にかかわったカナダのオフィス開発大手オリンピア・アンド・ヨーク(Olympia and York)は1992年に倒産している。 ドックランズは歴史的に交通の便が悪いため、LDDCはドックランズとシティの間に無人運転で走る新交通システム、ドックランズ・ライト・レイルウェイ(the Docklands Light Railway、DLR)を建設した。これは比較的安価な鉄道で、廃線跡などを再利用し軌道を通したため、第1期だけで7700万ポンドの出資で済んだ(LDDCは当初地下鉄新線を要求したが、政府に出資を拒否された)。LDDCはドッグ島とA13号高速道路を結ぶ道路、ライムハウス・リンク・トンネルを開削工法で建設したが、こちらは1kmあたり1億5000万ポンドかかったという史上最高額の建設費の道路であった。またLDDCは1987年にロイヤルドック跡にビジネスジェットなど小型機主体のロンドンシティ空港を建設している。
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