トロ・ロッソ加入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 05:02 UTC 版)
「セバスチャン・ボーデ」の記事における「トロ・ロッソ加入」の解説
2006年の12月にボーテはトロ・ロッソのテストドライブを行った。ボーデはチャンプカーで実績を示したドライバーに成長していたが、一方で年齢の高さが不安材料になっていた。ボーデのテストはこの後2007年に入ってからも断続的に継続された。 翌年8月にトロ・ロッソは来季からのドライバーラインナップを一新することを決定。すでにハンガリーGPから新しいドライバーとして加わっているセバスチャン・ベッテルのチームメイトとして、ボーデを迎えることを正式に発表した。 2008年(デビュー) F1初戦となったオーストラリアGPでは非力なマシンながら終盤まで4位を力走、チャンプカー4年連続チャンピオンとしての格の違いを見せた。結局は終了間際にメカニカルトラブルでストップしたものの、7位完走扱いとなり見事デビュー戦での入賞を記録した。その後は長く入賞が無く、新車STR3にも順応できずに苦しんだものの、ベルギーGPでは予選で9位を獲得。決勝でも再び力走を見せ終盤まで3位を走行し、雨に翻弄され順位を下げた結果ではあるが、2度目の7位入賞を果たした。 続くイタリアGPでは、予選で4位を獲得し好結果が期待されたものの、スタートでエンジンが始動せず、遅れてレースに復帰し、終盤ファステストラップ2位を記録しながらも無念の18位に終わり、日本GPでは6位でチェッカーを受けたが、レース中のフェリペ・マッサとの接触を巡って25秒加算ペナルティを受けるなど運にも恵まれなかった。 2008年は何度かの不運もあり2度の7位入賞、4ポイントに終わり、1勝・35ポイントをあげたセバスチャン・ベッテルとの成績差が大きく、契約は保留状態となり、佐藤琢磨とのシート争いとなったが、最終的に残留を勝ち取り、2年目のシーズンに臨むこととなった。 2009年 開幕戦のオーストラリアGPでは荒れたレース展開の中でポジションを上げ、チームメイトのルーキーセバスチャン・ブエミに次いで9位でフィニッシュし、その後ルイス・ハミルトンに失格処分が下されたため、繰り上がりで8位に入賞しポイントを獲得した。第6戦モナコGPでも8位入賞したが、成績はパッとせず予選では最下位になることもしばしばあった。追い打ちをかけるように第9戦ドイツGPの週末にパドックでは彼の解雇の噂が広まった。このレースでは油圧系のトラブルでリタイアに終わり、マシンを降りた後チーム関係者と抱き合うシーンを「お別れの挨拶」とも解釈した者もいたとされる。本人はドイツGP以降も参戦すると発言していたが、7月16日にトロ・ロッソからドイツGPを最後に離脱の発表がなされレースシートを失った。この解雇に対しボーデはトロ・ロッソに対して契約覆行義務に違反しているとして、法的措置を検討していると報じられていたが、後にチーム側と和解したことが発表された。 その後、F1に関して触れることはなかったが、2021年にレッドブル・ホンダが最終戦でワールドチャンピオンを獲得した翌週、レッドブルの戦略を「でたらめだ。(セルジオ・ペレスによるハミルトンに対してのディフェンスを)なぜ皆が称賛し拍手するのか全く理解できない」と疑問を呈し、「あのチーム(レッドブル)にスポーツマンシップはゼロだ。あのチーム全体がいつもそうだ」と付け加えた。これについてはトロロッソを放出されたことも関係しているのではと聞かれた際、「過去のトロ・ロッソでのいざこざは全く関係がない」とした上で、「僕はレッドブルの人間だったことは過去に一度も無いよ」「彼ら(レッドブル)はペレスのレースを完全に犠牲にして、彼をあのポジションに置いたんだ。 (ハミルトンを)妨害するために、意図的に1周あたり数秒を失っていたよ」とペレスのレースが犠牲になってしまった事実を考慮しない状況に苦言を呈した。ただし、ペレスの行為については同一周回での順位争いという扱いになるため、規定上は問題ないものの、争う過程でコースの低速区間で意図的にペースを変えてブロックしたことの是非やこれによってペレスのレース戦略に影響が起きたことも事実である。ペレス自身も最終戦に関して、他人のチャンピオン争いに関わりたくないものの、チームを優先するのは当然と納得はしつつも複雑な心境を示唆するコメントをしている。
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