セカンドウィンドAC時代
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「加納由理」の記事における「セカンドウィンドAC時代」の解説
2007年9月、北海道マラソンに出場。レース中盤辺りから独走となり、フルマラソン初優勝を果たした。気温30℃を超す猛暑の影響もあってか、ゴール後は軽い熱中症により優勝インタビューができず、医務室へ運ばれた。 2008年は北京オリンピック出場を目指しての挑戦と挫折の連続であった。1月、北京五輪の選考レースとなった大阪国際女子マラソンに2年連続出場したが、17 km過ぎで踵の故障悪化により途中棄権となった。 その後足底筋膜炎と判明するも、順調に回復し、大阪マラソンから42日後の3月、北京五輪の最終選考会である名古屋国際女子マラソンに出場。終盤まで先頭争いを演じる健闘を見せたが、あと一歩及ばず、中村友梨香、尾崎好美に次ぐ3位だった。なお好美はSWACのチームメイトだった尾崎朱美の妹である。 6月の札幌国際ハーフマラソンではハーフマラソンの自己新記録を達成、優勝を果たした。11月、最後の開催となった第30回東京国際女子マラソンに出場するも、優勝した尾崎好美に終盤の38 km手前でかわされる。その後先頭を走っていた渋井陽子を追い抜き自己ベストを16秒更新したが、2位に留まった。 2009年2月、特別招待選手として泉州国際市民マラソンへ出場したが、30 km付近で途中棄権。それからわずか1週間後、最後の開催となった横浜国際女子駅伝では日本代表で2区を走り、区間賞獲得。その結果、日本チームは優勝を果たし、有終の美を飾った。 3月、日本陸上競技連盟理事会において、前年の東京国際女子マラソンの成績により、2009年世界陸上ベルリン大会女子マラソン代表に初めて選出された。4月、ロンドンマラソンに出走するも、日本女子では森本友に続いて2番目、女子全体で11位に終わった。 8月、世界陸上ベルリン大会女子マラソンでは、優勝した白雪や2位の尾崎好美らが30 km過ぎから仕掛けたスパートにはついていけなかったものの、レース終盤も粘り続けた結果7位入賞を果たす。なお団体戦では日本代表で銀メダルを獲得した。11月、ニューヨークシティマラソンに出走したが、6Km付近で他選手と転倒に巻き込まれるアクシデントが響き、9位に終わった。 2010年3月、名古屋国際女子マラソンに出場。20度近い高温のためスローペースとなる中、31Km過ぎの登り坂で自らスパートすると、その後独走となる。その結果、2時間27分台のゴールタイムながらも、北海道マラソン以来2年半ぶり2回目のフルマラソン優勝を成し遂げた。この名古屋の優勝が評価され、2010年11月に中華人民共和国・広州市で開催されるアジア競技大会女子マラソン日本代表選手に、同チームメイトの嶋原清子と共に選出された。 7月の札幌国際ハーフマラソンでは気温29度という暑さの中、2年ぶり2回目の優勝を達成。しかし、期待された11月の広州アジア競技大会女子マラソンは、体調不良の影響により、18Km付近で優勝した周春秀(中国)らの先頭集団から脱落。その後は嶋原清子らにも追い抜かれて7位に留まった。 2011年3月、名古屋国際女子マラソンに2連覇を目指して出場予定だったが、本番2日前に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の影響で同マラソン大会が中止となる。その後も同年4月開催の海外レースへのエントリーはせず、同年8月の2011年世界陸上大邱大会女子マラソン代表入りを断念した。
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