ジョーゼフ・ピューリツァー時代
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「ニューヨーク・ワールド」の記事における「ジョーゼフ・ピューリツァー時代」の解説
1883年、ジョーゼフ・ピューリツァーがワールド紙を購入した。ピューリッツァーの下で、ワールド紙は積極的な発行部数拡大をした。所属する記者のネリー・ブライは、アメリカ初の調査報道を行う記者の一人であり、しばしば潜入取材を行った。新聞の売名の一環として、ジュール・ヴェルヌの小説『80日間世界一周』を真似て、ブライは1889年から1890年にかけて72日間で世界一周の旅をした。1890年、ピューリッツァーは本社ビルとしてニューヨーク・ワールド・ビルディングを建設し、当時世界で最も高いビルとなった。 1889年、ジュリアス・チェンバース(英語版)はピューリッツァーから編集長に任命され、1891年まで務めた。 1896年、ワールド紙は4色刷りの印刷機を使用し始めた。そして、世界で初めてカラーの付録をつけ、イエロー・キッドが主人公の漫画『ホーガンズ・アレイ』をその目玉とした。この頃からワールド紙は、ウィリアム・ランドルフ・ハーストの『ジャーナル・アメリカン』との部数争いをするようになった。この部数争いは、1899年の両紙の新聞少年のストライキの原因となり、同年のワールド紙の発行部数は70%減少した。 ワールド紙はセンセーショナルであるという理由で非難され、ハーストの『ジャーナル・アメリカン』との部数争いで「イエロー・ジャーナリズム」という言葉が生まれた。より以前から存在した出版社は、移民階級をターゲットとしていたピューリッツァーに憤慨し、ワールド紙を頻繁に非難した。1883年の猛暑で大量の子供が死亡したとき、ワールド紙は「小さな霊柩車の列」などのセンセーショナルな見出しでそれを特集した。この報道は、ニューヨーク市の改革の後押しとなった。ハーストは、保有する『サンフランシスコ・エグザミナー』紙や『ジャーナル・アメリカン』紙でピューリッツァーの手法を真似た。 1898年、チャールズ・チェイピン(英語版)が夕刊の『イブニング・ワールド(英語版)』の編集長として雇われた。チェイピンは、センセーショナルな報道を受け入れ、悲劇に直面してもほとんど共感を示さず、1901年のウィリアム・マッキンリー暗殺事件の報道の際にはより厳粛なトーンで報道したことで知られている。チェイピンは鉄拳をもって編集室を支配し、その下で働くジャーナリストからは軽蔑されていた。チェイピンは在任中に108人の職員を解雇した。しかし、スタンリー・ウォーカー(英語版)はチェイピンのことを「史上最高の編集長」と呼んでいた。1818年、チェイピンは経済的に破綻し、将来を悲観して妻を殺害したことで、新聞編集の職を離れることとなった。チェイピンはシンシン刑務所に収監され、1930年に獄中で亡くなった。 1904年、フランク・I・コブ(英語版)が発行者のピューリッツァーにより編集長に試験的に採用された。ピューリッツァーは新聞の運営に色々と口出しをしていたが、独立心の強いコブはそれに抵抗しようとした。ウッドロー・ウィルソンを支持するという点では2人は共通していたが、それ以外では多くの意見の相違があった。 1907年、ピューリッツァーの息子がワールド紙の運営を引き継いだとき、ジョーゼフ・ピューリツァーは発行人の辞表を提出した。コブはそれをワールド紙以外のニューヨークで発行される全ての新聞に掲載させた。ピューリッツァーはこの侮辱に激怒したが、徐々にコブの社説と独立した精神を尊重するようになった。2人の間の良好な関係は、主にコブの柔軟性によるものだった。1908年5月、コブとピューリッツァーは、一貫した編集方針の計画について話し合うために会合を開いた。 ピューリッツァーが現代ニュースの社説を要求したため、コブは過労に陥ってしまった。会社は静養のために、コブを6週間のヨーロッパ旅行に派遣した。コブの帰国後まもなく、ピューリッツァーが死亡した。コブは1923年に癌で亡くなるまで、ピューリッツァーとの話し合いで決定した編集方針を保持していた。
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