ジョーダンの引退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 06:37 UTC 版)
「1992-1993シーズンのNBA」の記事における「ジョーダンの引退」の解説
すでにシーズン前から身内には引退を仄めかしていたマイケル・ジョーダンは、スリーピートを成し遂げた後は、本格的にその時期を模索し始めていた。しかしその決断はジョーダンを襲ったある悲劇により、先送りされることとなる。 友人の葬儀に参列したジョーダンの父、ジェームズ・ジョーダンは7月22日に自宅に帰ると告げたのを最後に、消息を絶った。8月3日、サウスカロライナ州で腐乱死体が発見され、8月13日にその遺体がジェームズであることが判明する。後にジェームズを襲った少年強盗犯が逮捕されるが、真相が明らかにされるまでの間、マスコミたちはこの事件をジョーダンのギャンブル癖と結びつけ、これらの報道はジョーダンを著しく傷つけた。父の葬儀の後の記者会見で、ジョーダンは当時のマスコミの報道を、痛烈に非難している。 その後ジョーダンはあからさまにマスコミを避け、公の場に登場することも極端に減った。ジョーダンが久しぶりにファンの前に姿を現したのは、10月5日のMLBの始球式でのことだった。この試合中、テレビやラジオで「ジョーダン引退」のニュースが一斉に報じられる。そしてトレーニングキャンプ直前の10月6日、「もはや証明することは何も無い」という言葉とともに、ジョーダンはNBAを去った。 ジョーダンが疲れ果てていたのは明らかだった。常にリーグのトップを走り続け、3年連続でファイナルまで戦い抜き、行く先々でファンが押し寄せプライベートなど無きに等しい状態であり、そして近年は激しいバッシングにも耐えなければならなかったのである。NBAは翌1993-94シーズンを、マジック・ジョンソンもラリー・バードも、そしてマイケル・ジョーダンも居ない状況で迎えることとなった。
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