ユーイングの時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 19:28 UTC 版)
「ニューヨーク・ニックス」の記事における「ユーイングの時代」の解説
1985年には24勝58敗と低迷し、この低い勝率のためにニックスは翌シーズンのドラフト1位指名権を得た。ニックスはそのドラフトでパトリック・ユーイングを指名、ユーイングはその後20世紀の終わりまでチームにとって最も重要な選手となった。 ユーイングを獲得したもののニックスの勝ち数はすぐには増えなかったが、1989年に52勝30敗でディビジョン首位の成績。しかし翌シーズンには再び勝率が下がっていった。ニックスは1980年代の終わりにかけ、マーク・ジャクソンやチャールズ・オークレー、ジョン・スタークスなど1990年代の核になる選手を獲得している。 これらの選手を擁したニックスが再び強豪になるのは、1991年にパット・ライリーヘッドコーチを迎えて以降だった。ライリーはニックスをディフェンスの強いチームに育て上げ、他チームを苦しめた。ライリー初年度は51勝、翌シーズンは60勝と勝ち星を増やし、プレイオフではシカゴ・ブルズを追い詰めた。ニックスに再び優勝のチャンスが訪れたのは続く1994年で、シーズン途中にダラス・マーベリックスからデレック・ハーパーをトレードで獲得し、タフなディフェンスにさらに磨きをかけて、プレイオフではマイケル・ジョーダンの引退したシカゴ・ブルズに対して20点差以上つけられた試合も、第4Qに逆転する試合を演じて、ひさびさにNBAファイナルまで勝ち進んだ。ファイナルではアキーム・オラジュワンに率いられたヒューストン・ロケッツと対戦、ユーイングとのセンター対決、ガードの得点能力に注目が集まった。ロケッツの先発ガードの2人、ポイントガードのケニー・スミス、シューティングガードのバーノン・マックスウェルは概ね押さえ込んだが、当時はあまり注目されていなかった控えの新人ガード、サム・キャセールに僅差でリードされていた試合の要所で3ポイントシュートを決められるなど、3勝4敗でロケッツに優勝を譲った。 1990年代のニックスにとって、インディアナ・ペイサーズがライバルチームの1つとなった。プレイオフではペイサーズのレジー・ミラーの活躍がしばしばニックスを苦しめた(詳細はレジー・ミラーの項を参照のこと)。 ライリーは1995年を最後にマイアミ・ヒートに去り、後任にはジェフ・ヴァン・ガンディーが就いた。ヒートもライリーがニックスを退団後、ヒートのコーチになった頃からのライバルで、1997年のプレイオフではヴァン・ガンディーを巻き込んだ乱闘が起きたこともあった。この時、乱闘に直接加わらなかったもののベンチにいて立ち上がった選手も出場停止処分を受けた。 ヴァン・ガンディーに率いられたニックスは、ロックアウトで短縮された1999年のシーズンを27勝23敗とイースタン・カンファレンス8位の成績で終え、辛うじてプレイオフ進出を果たした。しかしその後はプレイオフ1回戦で宿敵ヒートを破るなど、快進撃を続け第8シードからNBAファイナルまで進んだNBA史上初のチームになった。この年のNBAファイナルでは、サンアントニオ・スパーズに1勝4敗で敗れて優勝を果たせなかった。翌1999-2000シーズンが終わると、ユーイングはシアトル・スーパーソニックスへ放出された。
※この「ユーイングの時代」の解説は、「ニューヨーク・ニックス」の解説の一部です。
「ユーイングの時代」を含む「ニューヨーク・ニックス」の記事については、「ニューヨーク・ニックス」の概要を参照ください。
- ユーイングの時代のページへのリンク