ジョーダンの登場
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「1984-1985シーズンのNBA」の記事における「ジョーダンの登場」の解説
古今東西あらゆるバスケット選手の中でも別格とされているマイケル・ジョーダンは、しかしドラフトで指名された当初、多くのNBA関係者は彼がここまでの存在になるとは予想していなかった。ジョーダンの学生生活は他のスター選手が歩んだような華々しいものではなく、高校生の頃はバスケットチームにさえ入れてもらえなかった。大学はバスケットの名門校であるノースカロライナ大学に進学したが、当時注目を集めていたのはチームメイトのジェームス・ウォージーで、ジョーダンは彼の陰に隠れた存在だった。ジョーダンにウォージー、そしてサム・パーキンスと、後に振り返れば非常に豪華な選手を揃えていたノースカロライナ大は1982年のNCAAトーナメント決勝に進出。対戦相手は後にジョーダン終生のライバルとなるパトリック・ユーイング率いるジョージタウン大学だった。全米が注目するこの大舞台で、1年生だったジョーダンは彼の運命を大きく変えるショットを決める。残り32秒で1点を追うノースカロライナ大は、重要なショットをエースのウォージーではなく、ジョーダンに託した。残り17秒、ジョーダンが放ったジャンプショットは綺麗にゴールに吸い込まれ、ノースカロライナ大の全米制覇を決定付けた。ジョーダンの"ザ・ショット"伝説の始まりだった。ジョーダンは瞬く間にカレッジ界のスター選手となり、3年生の時にはジョン・ウッデン賞、ネイスミス賞を獲得。名実共にカレッジバスケのNo.1選手となった。 カレッジ界で不動の評価を得たジョーダンだが、NBAのスカウト陣の視線は別の選手に注がれていた。ヒューストン大学のアキーム・オラジュワンである。213cmの長身に俊敏さを兼ね備えた将来のトップセンター候補で、あらゆるチームが欲しがる逸材だった。オラジュワンが大学でのプレイ4年間を全うし、いよいよドラフトにエントリーするとなって、前季1983-84シーズンでは低迷中のチームが躍起になって負けた。シカゴ・ブルズは後半の33試合で27敗し、ヒューストン・ロケッツはシーズン終盤にラルフ・サンプソンの出場時間を抑え、最後の10試合で9敗した。壮絶な敗北合戦の末にロケッツは見事にウエスタン最下位となったが、ブルズは後一歩及ばずインディアナ・ペイサーズに次ぐイースタンワースト2位だった。コインリップの結果ドラフト全体1位指名権はロケッツが獲得、結局ブルズは3位指名権だった。この敗北合戦が一因となって、翌年からはドラフト・ロッタリー制度が導入された。 そして運命のドラフト当日。ロケッツは微塵の迷いも無くオラジュワンを1位指名した。2位指名権はペイサーズではなく、過去のトレードからポートランド・トレイルブレイザーズに譲渡されていた。ブレイザーズにはすでにジム・パクソンやクライド・ドレクスラーが居た為、同じシューティングガードのジョーダンを指名する必要はなかった。そしてブレイザーズはサム・ブーイを指名した。後に「ドラフト史上最大の失態」との酷評を受けるこの指名も当時は順当なもので、たとえ膝に不安を抱えていようともケンタッキー大学のスターセンターを見逃す理由は、ブレイザーズには無かった。そして3位指名の番になって、ようやくジョーダンの名前が呼ばれた。ジョーダンはシカゴ・ブルズに入団したのである。 当初ジョーダンを指名したブルズですら、彼の真の価値に気づいてはいなかった。しかしドラフト後のロサンゼルス五輪に出場したジョーダンは国際舞台でも華々しい活躍を見せ、アメリカ代表を金メダルに導いた。ジョーダンの持つ可能性にようやく気づき始めたブルズは、当時の新人としては破格となる7年600万ドルの契約をジョーダンと交わした。 ブルズの選択は大正解だった。ジョーダンはブルズに数々の栄光をもたらし、そして1990年代には「あのマイケル・ジョーダンが所属するチーム」として世界で最も有名なNBAチームとなるからである。
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