ガーフィールド【James Abram Garfield】
ジェームズ・ガーフィールド
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ジェームズ・エイブラム・ガーフィールド(James Abram Garfield, 1831年11月19日 - 1881年9月19日)は、アメリカ合衆国の政治家、弁護士。第20代アメリカ合衆国大統領。暗殺された2人目の大統領[1]であり、初の左利きの大統領でもあり、大統領に選出された唯一の現職下院議員でもある[2]。在任はウィリアム・ハリソンに次いで短く6か月と15日に過ぎなかった。
- ^ Frederic D. Schwarz "1881: President Garfield Shot," American Heritage, June/July 2006.
- ^ Ohio Historical Society
- ^ “James Garfield”. United States Government, Biographical archives. 2009年1月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年10月31日閲覧。
- ^ “【写真特集】今日は何の日?7月2日 ヘミングウェイ死去、ガーフィールド大統領暗殺事件など(アフロ)”. Yahoo!ニュース (2017年7月2日). 2020年7月1日閲覧。
- ^ http://jamesgarfieldfacts.com/
- ^ Peskin (1978), p.4
- ^ Reeves, Thomas C. (1975). Gentleman Boss. NY, NY: Alfred A. Knopf. pp. 164. ISBN 0-394-46095-2
- ^ Ohiohistorycentral.org
- ^ Peskin (1978), p.6.
- ^ Peskin (1978), p.8
- ^ “James A. Garfield Monument” (英語). The Lake View Cemetery. 2011年2月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年2月23日閲覧。
- ^ 『ちょっと笑える話』ベネット・サーフ著、常盤新平訳、文藝春秋文春文庫、p25
- ^ 『アメリカ大統領を読む事典』宇佐美滋著、講談社+α文庫、p310、p422
- ^ The height differences between all the US presidents and first ladies ビジネス・インサイダー
- 1 ジェームズ・ガーフィールドとは
- 2 ジェームズ・ガーフィールドの概要
- 3 生涯
- 4 トリビア
ジェームズ・ガーフィールド
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「1880年共和党全国大会」の記事における「ジェームズ・ガーフィールド」の解説
ジェームズ・ガーフィールドはオハイオ州から上院議員に選ばれた者としてシカゴにきており、それ以前は1863年からアメリカ合衆国下院議員を務めていた。1859年、共和党員としてオハイオ州上院議員に選出された。翌年、オハイオ州の法廷弁護士として認められた。州上院議員は1861年まで務め、南北戦争が始まった時に北軍に入隊した。ガーフィールドはオハイオ第42志願歩兵連隊長に任命され、ケンタッキー州東部から南軍を追い出す任務を与えられた。1862年1月6日、ジェニーのクリークで南軍騎兵隊に対し多くの歩兵連隊を率いて戦った。南軍が撤退して自隊を勝利に導いたことで、1862年3月に准将に昇進した。 ガーフィールドは後のシャイローの戦いではドン・カルロス・ビューエル少将の下で、コリンスの包囲戦ではトマス・J・ウッド少将の下で仕えた。ガーフィールドは健康を害したので、フィッツ・ジョン・ポーター将軍の行動を調査する任務になった。1863年春、カンバーランド軍指揮官のウィリアム・ローズクランズの参謀長として戦場に戻った。1863年9月、激闘となったチカマウガ方面作戦の後、ローズクランズはその任務を解任された。ガーフィールドは戦闘の時に勇敢に戦うことでその評判を保ち、その後は少将に昇進した。ガーフィールドの名声が広がり、ウィリアム・デニソンが1863年のアメリカ合衆国下院議員選挙でガーフィールドを当選させた。ホワイトロー・リードが言っているように、ガーフィールドは「開戦と共に軍隊に入った若い政治家の中でも有能で傑出した者」だった。ガーフィールドは軍隊を去りたくなかったので、自らエイブラハム・リンカーン大統領を訪問し、助言を求めた。リンカーンはガーフィールドに、扱うことのできる以上に将軍がおり、必要なのは政治的な支援だと告げた。 ガーフィールドはその後も2年毎に下院議員に再選されていった。1872年、クレディット・モビリエ・オブ・アメリカの収賄事件で疑惑のある金329ドルを受け取ったとして告発された。ガーフィールドは繰り返しこの容疑を否定し、下院捜査官の前で弁護してもらうためにウィリアム・E・チャンドラーを雇うことまでした。このスキャンダルではあまり証拠が無かったので、ガーフィールドの政歴に大きな影響を残さなかった。その4年後、ジェイムズ・G・ブレインが下院から上院に転籍したので、ガーフィールドが下院の共和党院内総務になった。この年は1876年アメリカ合衆国大統領選挙でラザフォード・ヘイズと民主党のサミュエル・ティルデンが激しく争ったときであり、その決着は下院の選挙委員会に持ち込まれた。ガーフィールドもこの委員となり、委員会は最終的に論争のあった選挙人票20票を全てヘイズのものと判断し、その当選を決めた。1877年の妥協と呼ばれた。1880年共和党全国大会に先立ち、ガーフィールドはブレイン支持を打ち出していた。しかしジョン・シャーマンが出馬を表明すると、ガーフィールドは支持先を切り替え、「オハイオ・アイシクル」の支持を表明した。
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