ゴルフコース設計家になるまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/21 02:57 UTC 版)
「ビル・クーア」の記事における「ゴルフコース設計家になるまで」の解説
クーアは1968年に学位を取得し、その後2年間兵役に就いた。この時期の大半をノースカロライナ・ファイエットヴィルのフォートブラッグで過ごし、デイヴィッドソン郡の母親のところに帰省した際に、当時ハイポイントで建設中だった新コース、オーク・ホロウ(Oak Hollow Golf Course )を見に行った。オーク・ホロウは公営のゴルフコースとなる予定で設計はピート・ダイによるものだった。ピート・ダイは、サウスカロライナ・ヒルトンヘッドアイランドにあるハーバータウンゴルフリンクス(Harbour Town Golf Links)での斬新な設計で注目を浴び始めていた新進気鋭の設計家だった。「1971年当時、ゴルフコースはどこもロバート・トレント・ジョーンズ・シニア的なデザインだった。つまり、7,000ヤード超のチャンピオンシップコースとして造られていた。当時7,000ヤードといえば長いコースだった。ピートが手がけていたデザインは従来のものとは非常に異なっていて、僕はすっかり魅了されてしまった。ピートがどんな人物か全く知らなかったけれど、そこで目にしたものに強く惹かれたんだ。オーク・ホロウはハーバータウンと似ていた。技巧に富んだショット、短いショット、正確なプレー、プレースメントなどを想定したデザインに、僕は夢中になった。」クーアはこのコースのメンテナンススタッフと話をするようになり、じきにフロリダにあるダイの自宅の連絡先を聞き出した。この時、デューク大学の古典言語の修士課程に願書を出していたが、何らかの形でゴルフコース関連の仕事をしたいと考えれば考えるほど、この考えに強く惹かれていった。クーアは何度もダイに電話をかけ、メッセージを残したが、一向に返事はもらえなかった。兵役期間終了が迫ってくると、ますます頻繁に電話をかけるようになった。「言いたくないけれど、ウソをついたんだ。ある日やっとのことで彼をつかまえることができて『ちょうどフロリダに行く予定があるのでちょっと立ち寄ってお話しさせてもらえないか』と頼んでみたんだ。そうしたら『いいでしょう、近くまで来ているのであれば…』ということで、僕はピート・ダイに会うためだけにフロリダまで車を飛ばしたんだ。ある日曜日の午後、到着して彼に電話をした。彼はマイアミ・ドルフィンズの大ファンで、ちょうどその日はテレビ中継があったので、一緒にテレビで試合観戦しながら少しゴルフの話をした。僕がゴルフコース設計家になるチャンスは『雷に打たれる確率と同程度しかない』と言われたよ。」「僕は一番下からのスタートで構わない、ただ一心に学びたい、と訴えたんだ。まだ独身で、多くの収入も必要ではなかったし、どこにでも行くことができた。」(中略)その後ダイは、プロゴルファーのアーニー・ヴォスラーとジョー・ウォルサーが代表を務める新しい開発業者、ランドマークランド社から受注したノースカロライナ・グリーンズボロの新プロジェクトにもうじき着手することをクーアに伝えた。後にカーディナルゴルフクラブとなるこのプロジェクトの建設作業にクーアも加わったらよいと考えてのことだった。(中略)グリーンズボロでは、クーアはブルドーザーとトラクターの操作を覚え、エンジニアの図面の読み方も習得した。クーアはダイやダイの妻であり設計パートナーでもあるアリスから様々なアイデアをどんどん吸収していった。クーアは自らを「なんでも屋」と称していた。結局、ゴルフコースは未完成のままランドマーク社によって売却され、ダイはその後もこれを完成させることはなかった(建築家ジョージ・コッブが推薦した建設業者が、新しいオーナーのために後に完成させた)。しかし、これらを通じてクーアに良い印象を持ったダイ家は、ジョーンズ・アイランドでの次の仕事にも参加するよう求めた。そこは、フロリダのジュピタービーチにあるダイ家の自宅近くだったため、クーアはよくダイ家の留守番や飼っているジャーマン・シェパードの世話をし、週末にはダイの本棚にあるゴルフ関連の本を読みあさって過ごした。この時クーアは、アリスター・マッケンジー、バーナード・ダーウィン、ホラス・ハッチンソンらゴルフコース設計家について記述した古典的書籍の中から自らのゴルフデザインの考え方を見出したのだが、図らずもこれら書籍の多くはベン・クレンショーがテキサス大学の寮で読んでいたものと同じものだった。「ピートからは語りつくせないほどの影響を受けた。彼もアリスもとてもよくしてくれた。彼は僕のことを変わったやつだと思っていたんじゃないかな。僕は、ばらばらだったパズルのピースが適切な場所にはまっていく感覚を覚え始めていた。以前は、自分の好きなものが何かはわかっていても、それをどうやって理論から現実に落とし込めばいいかがわからなかったんだ。何はともあれ、ゴルフコースの設計に関する彼らの会話を盗み聞きさせてくれただけでも、本当にありがたいことだった。」クーアは10年間ダイの下で働いた後、1980年代初めにテキサスに移り、ピートの弟ロイのもとで、ヒューストンの北にあるウォーターウッド・ナショナル(Waterwood National Country Club)の設計とメンテナンスに携わった。(中略)クーアはウォーターウッドでの管理者の仕事を引き継ぎ、ずっと南のコーパス・クリスティ近くで、あるプロジェクトが難航していることを知った。ロックポート・カントリークラブ(Rockport Country Club)の経営者たちが窮地に立たされていたのである。「彼らは切羽詰まっていた。『これ以上、びた一文も出せない。これで何とかしてくれ。今すぐ取りかかってほしい』と。僕は願ってもないチャンスとばかりに飛びついたんだ。」(引用:The Golden Age Of Pinehurst, 2012 Lee Pace著, Univ of North Carolina, PINEHURST LLC, P.147-153)
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