キューピーの一大ブーム
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「ローズ・オニール」の記事における「キューピーの一大ブーム」の解説
詳細は「キューピー」を参照 1908年にはオニールの名声を不動のものとする奇抜なキャラクター、キューピーが生まれた。もともとオニールはデビュー当初から羽の生えた赤ん坊のモチーフをよく描いていた。人気雑誌『レディーズ・ホーム・ジャーナル』の編集者エドワード・ボック(英語版)はこの妖精たちに目を付け、子供向けのイラストレーションの主人公にするよう提案した。オニールは依頼にこたえて、1909年のクリスマス号に韻文でストーリーを付けた絵物語「キューピーたちのクリスマス浮かれ騒ぎ (The KEWPIES' Christmas Floric)」を寄稿した。これが「キューピー」の初出となった。キューピー (Kewpie) の名はローマ神話の愛の神キューピッドから取ったものである。大勢のキューピーたちはみな頭の先の髪がとがった赤ん坊のような姿をしており、いたずら好きだが善意の塊で、困っている人を助けてくれる。オニールは「ぽっちゃりした小さい妖精の一種で、頭にあることといえば、楽しくやると同時に親切でいる方法を教えたいということだけ」と説明している。続いて『ウーマンズ・ホーム・コンパニオン(英語版)』や『グッド・ハウスキーピング(英語版)』にも一回数ページのコミック作品が掲載され、キューピーはたちまち人気となった。1917年には全米各紙でサンデー・コミックス(英語版)(新聞日曜版の連載漫画)や一コマ漫画(「キューピー・コーナー」)の連載が始まった。オニールによってアメリカ人の「愚直、ひょうきん、気の良さ、冒険心、達観、そして博愛心」を体現させられたキューピーは国民的な「ドリーム・チャイルド」となった。 「キューピー狂時代 (Kewpie Craze)」と呼ばれたブームはすさまじく、漫画やイラストレーションから生まれたキャラクター文化として、ミッキーマウスに取って代わられるまで最初にして最大の成功例だったといわれる。紙人形や絵本にとどまらずポストカードや便せん、食器や日用品、服飾やインテリアなど大量のキャラクター商品が作られた。もっとも人気を集めたのはキューピー人形である。1912年、ニューヨークの問屋ボークフェルト& Co.がオニールと契約を交わし、ドイツの陶器会社J・D・ケストナーにビスク・ドールの製造を依頼した。オニールは現地工場を訪ねて生産を監修した。ドイツでは様々なサイズの人形が作られたが、第一次世界大戦が起きると生産拠点は米国国内に移り、コンポジション・ドール(英語版)やセルロイド製の人形も作られた。キューピー人形はアメリカのみならず日本やオーストラリアなど他国にも広まった。 オニールは人形の発売にあたって、著作権と商標権を保持してロイヤルティーを取る先見の明を持っていた。それまで著作だけでも2万ドルの年収を得ていたが、キューピーから得られた収入は約150万ドルに上った(1915年当時、男性の平均年収は700ドル以下に過ぎなかった)。ブームの最盛期には世界一裕福な女性イラストレーターだった。 億万長者となったオニールはボヘミアン的なライフスタイルを追求した。ボニーブルックの実家を増築し、グリニッチ・ヴィレッジのワシントン・スクエア公園に面したアパートの部屋を買い入れ、コネティカット州にも豪勢な邸宅を築いて「カラバ侯爵城」と名付け、チャールズ・キャリル・コールマン(英語版)から カプリ島の「ナルシス邸」を相続した。ワシントン・スクエアのアパートは芸術家のサロンとなった。オニールをモデルとした Rose of Washington Square という歌が作られ、同題で映画化された(『ワシントン広場の薔薇(英語版)』)。1922年にカラバ侯爵城へ移ってからも芸術家の友人知人を招いてパーティーを開いたばかりか、客を何年でも好きなだけ滞在させて生活の面倒を見た。その中には舞踏家のテッド・ショーンやマーサ・グレアム 、作家のウィッター・ビナー(英語版)やシャーロット・パーキンス・ギルマン(英語版)がいる。
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