ガージャール朝期(1796~1925年)
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「イランとロシアの関係」の記事における「ガージャール朝期(1796~1925年)」の解説
18世紀半ば、サファヴィー朝が弱体化してガージャール朝に変わるとイラン・ロシア関係は活発化した。ガージャール朝は早期に国内の混乱で消耗し、相互に対抗する植民地勢力がこの地域に対する安定的基盤を求めて急速に浸透するようになる。ポルトガル、イギリス、オランダがペルシア湾においてイラン南部および南東部の覇権を争う一方、ロシアはイラン北部での優位確立のために南下しており、ロシア帝国の北方での地位は挑戦をうけることのないものであった。 内政に苦しむガージャール朝は、北方からせまりくるロシアの脅威に対して立ち向かう困難を認識する。弱体化し破産状態にあるファトフ・アリー・シャー治下のガージャール朝は1813年、有名なゴレスターン条約への調印を強いられた。アッバース・ミールザー(ペルシア語版、英語版)の改革もイラン北境を安定させることに失敗、続いてトルコマーンチャーイ条約の締結に至る。 西北国境における2次にわたるイラン・ロシア戦争(第一次・第二次)、トルコマーンチャーイ条約およびゴレスターン条約によるロシア帝国の継続的な南下、さらには1823年のアッバース・ミールザーの急逝、大宰相アボルガーセム・ガーエム=マガーム(ペルシア語版、英語版)の暗殺が加わり、イランはロシア帝国のまえに中央アジアにおける伝統的な地盤を喪失した。ロシア軍は1849年にアラル海沿岸を制圧、1864年にはタシュケント、1867年にブハラ、1868年にサマルカンド、そして1873年にはヒヴァを落としてアムダリヤに至った。アーハル条約(ペルシア語版、英語版)におけるガージャール朝によるホラズムの割譲によって、新興大国ロシアのイランへの侵食は完成に達した。 19世紀末までにはロシアの勢力は、タブリーズ、ガズヴィーン、その他多数の都市がロシアに占領されたと言われるほどに伸長。テヘランの中央政府は自国の閣僚を英露領事館の承認なしに選任することさえできない状況に置かれた。たとえばモルガン・シャスターは宮廷に対するイギリス・ロシアの圧力のもとに辞任を余儀なくされている。シャスターの著書『ペルシアの窒息』はこのような状況における諸事件を詳細に述べ、イギリスおよびロシア帝国を厳しく批判する。 さらに1911年のロシアによるマシュハドのゴハルシャード・モスク(ペルシア語版、英語版)への砲撃、ウラディーミル・リアホフ大佐による国民議会砲撃などの諸事件によって、イラン全域での広範な反露感情は最高潮に達した。
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ガージャール朝期
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ガージャール朝における首相職を指す名称はさまざまである。首相職そのものはおもに「アターバク」あるいは「アターバケ・アアザム」(大いなるアターバク)、また初期には「サドレ・アアザム」(首位)、末期には「ライーソルヴォザラー」(宰相らの長)とも称された。称号「ナホスト・ヴァズィール」(首相)が用いられることは稀であった。首相は通常その名誉称号「ハズラテ・アシュラーフ」をもって呼称された。
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