ガージャール朝時代
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テヘランがイランの首都になったのは1795年、ガージャール朝のアーガー・モハンマド・シャーがこの地で戴冠したときである。彼はゴレスターン宮殿の造営を開始したものの、この時期にはまだ城壁はタフマースブ1世時代に建設されたものと全く同じ規模であった。この小規模な城壁では増大するテヘランの人口を収容しきることはできず、北部城外には富裕層の、南部城外には手工業者たちの居住地が建設されるようになっていた。ガージャール朝4代国王であるナーセロッディーン・シャーはこの状況を改善するため1869年より城壁の大拡張を行い、8角形で全長16km、12の門を持つ新たな城壁が1874年には完成した。旧城壁は撤去され、1889年にはその跡地に鉄道馬車の路線が敷設された。 1892年にはテヘランから南のレイまで鉄道が開通し、徐々に近代化が進んでいった。しかしガージャール朝の衰退とともにテヘランにも不穏な空気が漂うようになり、1905年には物価高騰からバザールの商人を中心とした抗議行動が起き、やがてテヘランから全国へと波及して1906年にイラン立憲革命が起こった。 テヘランでは議会が開催されたが、内紛によって弱体化するのを見た国王モハンマド・アリー・シャーは軍事力で議会を解散させる。しかし立憲派のこもるタブリーズを陥落させることができず、逆に立憲派の反攻を招いてモハンマド・アリー・シャーは退位しロシア帝国へと亡命して、テヘランを奪回した立憲派はアフマド・シャーを即位させた。しかしイギリスとロシアの介入によって立憲革命は失敗に終わり、ガージャール朝は支配力を失った。これに対し、1921年にはレザー・シャーがテヘランでクーデターを起こして政権を奪取し、1925年には議会によって皇帝に推挙され、ここにパフラヴィー朝がはじまった。
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ガージャール朝時代
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「東クルディスタン」の記事における「ガージャール朝時代」の解説
1867年、ガージャール朝のナーセロッディーン・シャーがアルダラン藩王国を廃止した。 1880年、クルド人指導者のShaykh Ubaydullahは、政府に対して一連の反乱を指揮したが、鎮圧された。 第一次世界大戦の混乱に乗じてIsmail Agha Simkoは反乱を指揮したが、レザー・パフラヴィーに鎮圧された。 1918年~1922年、シカク族のシムコ・シカク(英語版)がオルーミーイェ湖西岸を支配した。しかし、レザー・パフラヴィーに鎮圧され、シムコを逃亡した。 1925年、マリーバーン(英語版)からハラブジャ北部を支配したハウラマン(英語版)のスルタン・ジャーファルが倒された。
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