エンジニア時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 21:17 UTC 版)
大学院修了後、日亜化学工業に就職し、開発課に配属される。現場の職人からガラスの曲げ方などを習い、自らの手で実験装置などの改造を行った。これらの経験が、CVD装置の改良に生かされ、後の発明に繋がる。 日亜化学工業時代に商品化したものとしては、ガリウム系半導体ウェハーなどがあったが、ブランド力や知名度が低く売れなかった。中村は青色発光ダイオードに挑戦することを決意し、青色発光ダイオードの開発を社長の小川信雄に直訴。中小企業(1988年当時、日亜化学の年間売上高は200億円に満たない程度であった)としては破格の約3億円の開発費用の使用を許される。 中村はまた社長に留学を直談判し、1988年4月から1年間の予定で、アメリカ合衆国のフロリダ大学へ留学する。MOCVD を勉強するための中村の希望であったが、日亜化学としては元々、徳島大学助教授酒井士郎の勧めで、フロリダ大学へ誰か社員を派遣する計画であった。中村は修士修了で博士号を持っていなかったため、留学先で研究者として見てもらえず悔しい思いをしており、「コンチクショー」と博士号取得や論文執筆への意欲を新たにした。 1年間の留学後、日亜化学工業に戻り、2億円ほどするMOCVD装置の改造に取り掛かる。なお、2014年に中村修二へのノーベル物理学賞授与が発表されたとき、中村修二はインタビューに応えて「日亜化学の先代社長の小川信雄氏には感謝している。彼の研究支援がなかったらこのノーベル賞はなかった」と述べている。 当時の応用物理学会、研究会などではセレン系に注目が集まっていた一方、ガリウム系の研究会は人数も少なかった。しかし中村は「あれだけ優秀な人たちが取り組んでもうまくいかないならば、むしろ終わったとされる分野に挑んだ方が良い」ということで、ガリウムに着目。その後、中村はツーフローMOCVDによりGaN(窒化ガリウム)の結晶作成を実現。妹尾雅之や岩佐成人が実現した熱処理によるp型化アニール技術に対しては、水素原子が寄与する「中村モデル」を推定し、このモデルが同技術の特許の基本となる。 日亜化学はさらに窒化インジウムガリウム(InGaN)による紫外、青色発光を実現。技術は松岡隆志博士が発表した論文がベースであったが、日亜化学は亜鉛とシリコンをドープさせることにより、輝度を高めた。実現したのは向井孝志や妹尾雅之、長濱慎一らの開発チームであったものの、亜鉛とシリコンをドープすることは中村が助言したとされる。1993年10月に豊田合成が輝度200ミリカンデラの青色発光ダイオードを発表するが、この時点で日亜化学はpn接合と1000ミリカンデラの輝度を達成していた。1993年11月30日、日亜化学は青色ダイオードの実用化を大々的に新聞発表する。
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