イギリスが敗北した要因
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 16:05 UTC 版)
「アメリカ独立戦争」の記事における「イギリスが敗北した要因」の解説
アメリカ独立戦争で対立した両勢力が元々は同じ国民であったため、外国の地で戦われた内乱という見方もある。ただし、イギリスは軍事力ではアメリカよりも遥かに優勢で、アメリカはフランスの援助が無ければ戦い通すことができなかった。明らかに不利なアメリカが勝利できた理由の一つとして、アメリカとイギリス本国との距離が離れていた事が上げられる。イギリスは援軍や物資を本国から大西洋を越えて運ばねばならず、イギリスには港湾都市から一歩離れれば兵站の問題が常に付いて回ることとなった。一方のアメリカは地方に行けば兵や食糧を補充でき、その環境に順応できた。また、イギリス本国が戦争の情報を受け取るには大西洋を越えなくてはならず、その間に情報が2か月ほど遅れてしまうのでアメリカにいるイギリス軍の将軍が首都ロンドンからの指令を受け取る時には、軍事的な情勢が変わってしまっていたことが多々あった。 また、イギリスがアメリカの反乱を抑えようとした事で新たな問題が誘発された。植民地は広大な範囲に広がっており、戦前はそれらは一体ではなかったので戦略的に重要な地点は一つではなかった。ヨーロッパでは首都制圧が戦争の終わりを意味していたのに対し、アメリカではイギリスがニューヨークやフィラデルフィアなどの都市を占領したのにもかかわらず、戦争を終わらせる事ができなかった。また、領土が広いということは、イギリス軍が力で制圧しようとしても広範囲を抑えられるだけの兵力が必要となる。これはイギリス軍がある地域を占領したとしても、そこを占領するための兵を置かないとアメリカの革命軍に奪い返されることを意味し、イギリスが占領を維持しようとすれば、次の作戦行動には移れないことを意味していた。イギリス軍は戦場でアメリカ軍を叩くには十分な兵力を保持していても、その地域の占領を続けるには兵力が足りていなかった。この兵力の不足はフランスとスペインが参戦した後は、兵力をいくつかの戦線に分散させざるを得なくなり、更に大きな問題となった。 さらに、イギリスは王党派との連携を保ちながら戦争を遂行しなければならなかった。王党派の支持は植民地をイギリス帝国の中に留めておくという目的のために不可欠だったが、これにより軍事的な制限も起こった。戦争初期、ハウ兄弟は戦争を遂行しながら和平のための交渉も続けていたので、戦闘の際の効果を削いでいた可能性があった。そしてイギリスは奴隷やアメリカ先住民族を戦争に駆り立てたが、これは王党派との関係を疎遠にし、賛否両論のあったドイツ人傭兵の採用よりもさらにその傾向を強めたと考えられている。王党派を繋ぎとめるために、イギリス軍は、かつてアイルランドやスコットランドを抑え込むために用いた過酷な手段を使えなかった。これらの制限があっても、それでも潜在的に中立であった植民地の人間が革命派の中に入っていく事を防ぐ事はできず、これらの要因によりアメリカにおけるイギリスの支配は終わり、革命派は自らの国として、アメリカ合衆国を打ち立てた。 なお、武器の性能にも決定的な違いがあった。物量では勝っていたイギリス軍だったが、使用していたライフルは射程距離で劣っていたため、敵兵へのある程度の接近によって大きな犠牲を伴った。当時のアメリカでは野牛への遭遇に備えて銃身内部に螺旋の溝を施したことで、イギリス軍の使用するライフルよりも射程距離が長く命中精度や威力の高いライフルの開発に成功していた。
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