アールパード家の支配の始まり
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「クロアチア王国 (925年 - 1102年)」の記事における「アールパード家の支配の始まり」の解説
ズヴォニミルは後継者を残さず没し、トルピミロヴィチ家の本流の出身である老齢のスティエパン2世が王位に就く。スティエパン2世は大部分の時間をスプリト近郊の修道院で過ごし、1091年に後継者を残さず没した。スティエパン2世の没時にトルピミロヴィチ家の男子は生存しておらず、間もなくクロアチアに内戦と動揺が勃発する。 ズヴォニミルの寡婦であるヘレンは後継者問題の中でクロアチアにおける権力の維持を試み、クロアチアの貴族は王家と縁戚関係にあるハンガリー王ラースロー1世に仲裁を依頼した。また、ダルマチアの都市のいくつかはラースロー1世に支援を申し出、ハンガリーの宮廷で「白クロアチア人」を自称していたことが伝えられている。このためラースロー1世のクロアチアに対する軍事行動は単なる外国の侵攻ではなく、相続権を持つ人物によるクロアチア王位の請求とされている。1091年にドラーヴァ川を渡ったラースロー1世は敵に遭遇することなくスラヴォニア全域を征服し、ハンガリー軍は「鉄の山(Mount Gvozd)」付近で行軍を停止した。クロアチアの貴族の内部分裂によってラースロー1世は軍事作戦を成功させることができたものの、いまだにクロアチア全土に支配を確立することはできず、彼が支配下に置いた範囲も明確になっていない。ラースロー1世は甥のアールモシュをクロアチアの統治者に任命し、新たな権威の象徴としてザグレブに司教座を設置した上でハンガリーに帰国した。 ラースロー1世の行動に対して、クロアチアの封建貴族は1093年にペタル・スヴァチッチをクロアチア王に選出し、ペタル・スヴァチッチはクニンを本拠地とした。彼の治世はアールモシュとの抗争に費やされ、クロアチアを支配下に置くことができなかったアールモシュは1095年にハンガリーに撤退する。 1095年にラースロー1世は没するが、新たなハンガリー王となったカールマーンはクロアチアでの軍事行動を継続した。先代のラースロー1世と同様に、カールマーンも征服者ではなくクロアチア王位の請求者と見なされていた。カールマーンは王位の請求のために軍隊を編成し、1097年にペタル・スヴァチッチの軍隊をグヴォズドの戦い(英語版)で破り、ペタル・スヴァチッチは戦死する。クロアチアにはペタル・スヴァチッチのほかに強力な指導者はおらず、ダルマチアは攻略が困難な城塞都市を多く有していたため、カールマーンとクロアチアの封建貴族の間で交渉が開始された。1102年にカールマーンはビオグラードでクロアチア王として戴冠され、「ハンガリー、ダルマチア、クロアチアの王」の称号を名乗る。 1102年にカールマーンはクロアチアの12の部族の代表者と「パクタ・コンヴェンタ」と呼ばれる協定を締結し、アールパード家出身のマジャール人(ハンガリー人)君主はクロアチア、ダルマチアの支配者として承認される。カールマーンはクロアチア貴族の特権と自治を認め、貴族の中から統治を行うバン(太守)を任命した。特権と自治の保持に対して、カールマーンの国境線が攻撃を受けた場合にはクロアチアの貴族たちは少なくとも10の武装騎兵をドラヴァ川の向こうに派遣し、ハンガリー王に奉仕することを誓約した。「パクタ・コンヴェンタ」自体は1102年より後に作成された文書と考えられているが、クロアチアの貴族とカールマーンの間にパクタ・コンヴェンタと同種の制約を定めた合意は存在していたと考えられている。 王位を巡る争いを経て1102年にクロアチア王冠はハンガリーのアールパード家に渡り、ハンガリー王カールマーンはビオグラードで「クロアチアとダルマチアの王」として戴冠を受けた。クロアチアとハンガリーからなる2つの王国の連合の正確な定義について、19世紀に論争が起きる。クロアチアの貴族の選択、あるいはハンガリーの軍事力を基にしてアールパード朝の統治下で2つの王国は結合されていた。クロアチアの歴史家は2つの王国の関係を共通の王を頂く同君連合であると考え、ハンガリーの歴史家の多くもこの意見に同意しているが、一方でセルビアの歴史家と民族主義的な立場をとるハンガリーの歴史家はハンガリーへの一種の併合と見なしている。かつてのハンガリーの史学ではビオグラードで行われたカールマーンの戴冠式が論争の対象とされ、クロアチアはカールマーンによって征服されたとする意見が出された。今日ではハンガリーの法制史学者は1526年のラヨシュ2世の死までのハンガリーとクロアチア・ダルマチアの関係は同君連合に極めて近いことを指摘し、イングランドとスコットランドの関係にも例えられている。
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