アールパード朝の断絶とカーロイ・ローベルトの即位とは? わかりやすく解説

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アールパード朝の断絶とカーロイ・ローベルトの即位

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/20 19:36 UTC 版)

ハンガリー・アンジュー朝」の記事における「アールパード朝の断絶とカーロイ・ローベルトの即位」の解説

1301年アンドラーシュ3世嗣子をもうけることなく没したことにより、アールパード朝断絶するハンガリー貴族アールパード家女系子孫から国王迎えることにし、ボヘミアプシェミスル家からヴェンツェル(のちにヴァーツラフ3世としてボヘミア王に就きポーランド王も兼ねた)、バイエルンヴィッテルスバッハ家から下バイエルン公オットー3世ハンガリー王位に就いたが、いずれも短期間在位終わったいずれもベーラ4世血を引いていた)。 アンジュー家ナポリ王カルロ2世長男カルロ・マルテッロハンガリー王イシュトヴァーン5世の娘マーリアが母であり、1290年叔父ラースロー4世暗殺された後に自身王位継承主張してアンドラーシュ3世即位認めず教皇ニコラウス4世承認の下に名目上ハンガリー王称していたが、すでに1295年死去していた。しかしその息子カルロ・ロベルトカーロイ・ローベルト)は、1308年カーロイ1世として即位することになった。これがハンガリー・アンジュー朝始まりである。 カーロイ1世治世ハンガリー再建にほとんど費やされた。即ち、金属の独占通貨改革国庫収入安定させたのである折から銀山出高増大が一層の拍車をかけた。 カーロイ1世守勢的な政策対外政策にも表れたダルマチアヴェネツィア共和国割譲しボスニアへの支配名目的なものに留めたからである。もっとも、カーロイ1世対外政策は必ずしも守勢的ではなかった。膨張著しハプスブルク家対抗するために、1335年ボヘミア王ヨハンポーランドヴワディスワフ1世仲裁することによって、ハンガリーアンジュー家)・ボヘミアルクセンブルク家)・ポーランドピャスト家)の3ヶ国連合を築こうとしたからである。これは婚姻政策にも現れており、カーロイ1世最初の妃マーリアピャスト家支族出身2番目の妃ベアトリクスヨハンの妹、3番目の妃エルジェーベトヴワディスワフ1世の娘であった。特に最後結婚ハンガリーポーランド連合王国への道を開くものであった

※この「アールパード朝の断絶とカーロイ・ローベルトの即位」の解説は、「ハンガリー・アンジュー朝」の解説の一部です。
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