アングリカンとの対峙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/12 15:36 UTC 版)
「エドマンド・キャンピオン」の記事における「アングリカンとの対峙」の解説
このころキャンピオンはカトリック信条を保ちながらアングリカンを便宜的に信仰していることに悩むようになったが、グロスター主教リチャード・チェイニーの説得を受けて国教会の執事に叙任された。心の中では「良心の呵責と心からの憎悪を抱き」ながら、国教会の聖職者となったのである。彼の宗教信条に関する噂が広まり、キャンピオンは1569年にはオックスフォードを去ってアイルランドに移住、そのころ構想されていたダブリン大学(en:University of Dublin)の設立計画に参与した。 キャンピオンはアイルランド議会議長の息子リチャード・スタニハースト(en:Richard Stanihurst)の家庭教師となり、庶民院の第一会期に閉会まで出席した。キャンピオンはスタニハースト家の同意を受けてペイル(en:The Pale)のターヴェイにあるパトリック・バーンウォールの家に移った。ダブリンで幅をきかせるプロテスタント達に捕まり、拷問を受ける危険を避けるためだった。3か月の間、キャンピオンはパトリックという偽名を使い、アイルランドの歴史を執筆していることにして追跡を免れた。 1571年、キャンピオンは密かにアイルランドを離れてネーデルラント地方のドゥエー(現在はフランス領)に逃れ、その地でカトリック教会に復帰して聖餐を受け、アングリカンであった過去の12年間を否定した。キャンピオンは同じオックスフォードからの宗教上の離脱者だったウィリアム・アレン枢機卿が創設したドゥエー神学校に入学した。新入生キャンピオンは瞬く間に頭角を現し、すぐに教皇から奨学金を支給されることになった。 神学校の基本的な目的は、全ての司教が死亡、亡命中、あるいは拘留中でカトリック司祭を叙階する人もいないイングランドのカトリック教徒たちに、司祭を育成し提供することだった。エリザベス女王の第一秘書官ウィリアム・セシルは、メアリー女王の治世に聖職叙任を受けた司祭たち(Marian Priestsと呼ばれた)は数年のうちに絶滅し始めるだろうと予想していた。 ドゥエー神学校はまた、知的精鋭の集まる場所でもあった。同神学校では、英語訳聖書の歴史において欽定訳聖書に先立つドゥエー=ランス聖書(en:Douay-Rheims Bible)が編纂されている。またキャンピオンはこの地で多くのオックスフォード時代の旧友たちと再会している。彼は神学校で修辞学の教師をしながら神学学士(en:Bachelor of Divinity)の学位を取得し、1573年1月21日にドゥエー大学に進学した。ドゥエーは単に神学校があっただけでなく、イングランドからのカトリック亡命者たちの拠点でもあった。重要な政治目的を持った密使たちが、アレン枢機卿の許を秘密裏に訪ねてきていた。このためイングランド当局は神学校にカトリック転向者を装ったスパイを送り込んでいた。 大学の学位を取得後、キャンピオンは彼の到来を待ち望む声に応えてローマに赴いた。イタリアへの旅程では、キャンピオンは貧しい巡礼者に身をやつしていた。キャンピオンは同地でイエズス会の修練者となり、ウィーンとプラハで数年を過ごした。
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