アングリカニズムへの合流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 15:59 UTC 版)
「ダブリン大主教」の記事における「アングリカニズムへの合流」の解説
ジョン・アレンの死後、ヘンリー8世はダブリンの大聖堂参事会に圧力をかけ、1536年1月に彼が選んだ大主教であるジョージ・ブラウンを選出させた。彼はカンタベリー大司教トマス・クランマーによってランベスにて聖別が行われていたものの、教皇には一切認められていなかった。しかし彼はアイルランド継承教会を始めることになり、これは現在アイルランドで2番目の信者を持つアイルランド国教会の始まりであった。 カトリックの信奉者であったメアリー1世の時代、イングランド国内においても国教会は抑圧され、多くの聖公会系聖職者が大陸追放や処刑にあった。ダブリン大主教のジョージ・ブラウンも同じく地位を追われ、その後継にはヒュー・カーウェンがつくことになる。しかしメアリーの治世は短命に終わり、中道的なエリザベス1世の治世が始まるとヒューは自身がプロテスタントであることを宣言しその地位を保守した(ただしこのためヒューはアーマー大主教らから非難を浴び、1567年に大主教の地位を退いている)。なお、彼の代にアイルランド国教会は正式に国教の地位についている。
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