アルフレッド・レノンとの結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 09:39 UTC 版)
「ジュリア・レノン」の記事における「アルフレッド・レノンとの結婚」の解説
アルフレッド・'フレディ'・レノン(家族からは専ら「アルフ」と呼ばれていた)は常に冗談を言っていたが仕事は長続きせず、リヴァプールの多くのヴォードビル劇場や映画館(彼はそれらの案内係の女性を名前で知っていた)を巡ることを好んだ。リヴァプールのキャムデン・ロードに面した映画館を改装したトロカデロ・クラブで、彼は「明るい笑顔と高い頬骨を持つ鳶色の髪の女の子」ジュリア・スタンリーと初めて出会った。友人と女の子を物色に来ていたセフトン公園で、アルフはジュリアに再会した。山高帽を被り、シガレットホルダーを手にしたアルフは「この小さい浮浪者」が鉄製のベンチに座っているのを見かけた。14歳のジュリアは彼の帽子が「馬鹿げて」見えると言い、15歳のアルフは君は「可愛らしく」見えると答えて彼女の隣に座った。彼女に帽子を脱ぐよう頼まれたので、彼は直ちに帽子を公園の池に投げ込んだ。 ヒールを入れても5フィート2インチ(157cm)の身長しか無かったが、彼女は魅力的且つ豊満で道行く人々の視線をしばしば捕えた。常に身なりを良くしており、「起きたとき美しく見えるように」寝る時でさえ化粧をしていた。後に彼女の甥の1人は、彼女が「何も無いところからジョークを生み」出せ、「笑顔と冗談とともに燃えている家から出てくる」ことができたと語った。リヴァプールのダンスホールやクラブに頻繁に出向き、しばしばジルバコンテストにおいて港湾労働者、兵士、船員、ウエイターたちから踊るように依頼された。誰よりもユーモアに富み、昼夜を問わず常に最新のポピュラーソングを歌うことが出来ると言われていた。彼女の声がヴェラ・リンそっくりに聞こえた一方で、アルフレッド・レノンはルイ・アームストロングやアル・ジョルソンの物真似を十八番にしていた。2人とも音楽のプロは目指さなかったが、共にウクレレ、鍵盤付きアコーディオン、バンジョーを演奏した。2人は一緒にリバプールを歩き回り、店かパブかカフェかクラブを開くといった未来の夢を語り合った。 1938年12月3日、最初に出会ってから11年後、ジュリアからアルフ・レノンに求婚した後2人は結婚した。彼らはボールトン・ストリート登記所で結婚したが、ジュリアが知らせなかったため、スタンリーの家族は1人も立ち会わなかった。彼女は結婚許可証の職業欄に過去に一度も就いたことのない「映画館の案内嬢」と書いた。2人はその日クレイトン・スクエア(英語版)のリースズ・レストラン(後年、彼らの息子ジョンがシンシア・パウエルとの結婚式を挙げた)で食事をし、映画を観て過ごした。彼女はニューキャッスル・ロード9を結婚許可証を振り回しながら歩き、「ほら! 私は彼と結婚したわよ。」と家族に告げた。いつか恋人と同棲するようになったら、自分を勘当しかねなかった父親に対する反抗であった。結婚初夜、ジュリアは実家に留まり、アルフレッドは自分の下宿に帰った。翌日、彼は船に戻り西インド諸島に向かう3ヶ月の航海に旅立った。 スタンリー家は当初、彼を「誰の(私たちのジュリアにとっても当然)役にも立たない」男だと確信して完全に無視した。彼女の父親はアルフレッドが娘を財政的に養うことができる具体的な証拠を見せろと要求したが、アルフレッドは地中海に向かう商船隊の船の船室係として契約した。彼は数ヶ月の航海から戻り、スタンリーに家に移り住んだ。その後、地元の劇場でエンタテイナーとしてのオーディションを受けたが何れも失敗に終った。1940年1月、ジュリアは自分が妊娠しているのに気付いたが、戦争が始まると夫は第二次世界大戦の間、商船員の仕事を続けて金を家に定期的に送った。1943年、アルフレッドの失踪後、送金は途絶えた。
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