アルフレッド大王の統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/20 16:50 UTC 版)
「ウェセックス王国」の記事における「アルフレッド大王の統治」の解説
865年、再びデーン人が来襲し、デーン人はノーサンブリア、イースト・アングリアを征服する。871年にはウェセックス王国も侵略にさらされるようになり、一時期エゼルレッドとアルフレッドの兄弟による敗北で停滞するものの、度重なる戦線で兵馬を失ったアルフレッドはデーン人に対し金銭をもって撤退させるようになる。 デーン人はマーシア王国を服属させ、ノーサンブリアにも勢力を伸ばしたが、876年再びウェセックスにやってきた。これに対してアルフレッドは迅速に対応、877年に小競り合いで撤退させる事に成功する。デーン人の一派はそのままマーシアへ撤退、残存する残りのデーン人は877年初頭の冬に再びウェセックス王国に進攻してきた。冬季の進軍にアルフレッドは驚き、国土の大半を侵略され、アルフレッドはサマーセットの湿地へと避難するが、数ヵ月後に軍を徴収、エサンドゥーンの戦い(英語版)(古英語: Battle of Ethandun、現在のウィルトシャー州エディントン(英語版)付近)でデーン人を粉砕する。この勝利により878年にウェドモーアの和議が締結され、デーン人はイースト・アングリア、ウェセックスからデーンロウへ最終的に撤退した。 そののちの数年、アルフレッドは内政の再編に取り掛かる。彼は軍船を建造する、軍隊を2交代制にして常時臨戦態勢にさせる、増強した砦(ブルフ、Burh)を国内隈なく築き上げるなどウェセックス王国の内政、防衛体制において大幅な改革に着手した。このような体制の内容は「Burghal Hidage」という10世紀の書物に記録として残されており、それによるとウェセックス王国に33の駐屯地があり、安全な場所から馬に一日乗った距離以内にあったと言う。この改革により890年代に再来したデーン人の来襲を最小の犠牲で追い払う事ができた。 またアルフレッドは司法組織にも改革を加え、大学と教育機関の復興を手助けした。イングランド中またはヨーロッパの各地から学者を自らの宮廷に召還し、彼らにラテン語の書物を古英語に翻訳させた。仕事のほとんどは個人作業でさせたが、アングロサクソン年代記の執筆は集団作業で行われ、アルフレッドはその指揮を執った。このような文化作業の結果、ウェセックス王国の政治的な優位性が上昇し、この時代の西サクソン方言が古英語の標準語となり、その後のアングロサクソン社会の標準となった。 デーン人の侵略はノーサンブリアとイースト・アングリア地域を荒廃させ、北東部にデーン人の定住によりマーシアは二分、北東部はデーン人の定住地となり、南西部はチェオルウルフ(en:Ceolwulf II of Mercia)の支配となったが、チェオルウルフ自身デーン人の傀儡に過ぎなかった。チェオルウルフが死去するとアルフレッドは正式なマーシア王国の後継者となったが、それは他の王の推挙によるものでなく、エアルドルマン(en:Ealdorman、現在のEarl、伯爵に相当)のエゼルレッド(en:Earl Aethelred of Mercia)の要請によるものだった。また彼はアルフレッドの支配下に入る事に異議はなく、アルフレッドの娘エゼルフレダ(en:Ethelfleda)を娶っていた。このマーシアがどのような形でアルフレッドの支配下に入ったのか移譲に関しての過程はよく分かってはいないが、これによりアルフレッドはデーン人の来襲で生き残った唯一のイングランド在住の王となった。
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