アル=ケ=スナンの王立製塩所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/25 14:45 UTC 版)
アル=ケ=スナンの王立製塩所は、フランス東部のドゥー県アル=ケ=スナン(アルク=エ=スナン)市にある旧製塩所で、創造力豊かな建築家クロード・ニコラ・ルドゥが都市計画まで視野に入れて手がけた建築物。この製塩所はサラン=レ=バンやロン=ル=ソーニエの旧式の製塩所に取って代わるものだった。
理想の工業都市を追求する形で円形の都市が計画されていたにもかかわらず、半円状で工事は中断された。しかし、その計画性は当時の都市計画を偲ばせるものと評価され、ユネスコの世界遺産に登録された。製塩所としての操業は19世紀末で停止しており、現在は博物館や資料館として公開されている。
目次
18世紀の歴史的背景
当時、食塩は肉や魚などの保存に用いられていたため、相対的に需要の高い食品であった。ガベル(塩税)(fr)という塩の消費に応じた税金がかけられており、徴税請負事務局 (ferme générale) に徴収されていた。フランシュ=コンテには地下に岩塩の鉱脈があり、相対的に富裕だった。この地方には、塩用の井戸が多くあり、取り出した塩水をボイラーで沸騰させて塩を精製していた。そのボイラーを焚くために薪が必要とされ、近隣の森林から切り出されていた。当時、サラン=レ=バンやモンモロには多くの井戸やボイラーがあったが、薪の伐採が続いた結果、近隣の森林資源は乏しいものとなっていった。その結果、燃料はどんどん遠くから調達しなければならなくなり、コストが高くなっていった。さらに時が経つと、塩水濃度の低下にも見舞われた。一定期間、王属の専門家たちは « petites eaux » を使うことを研究していたが、1773年4月の御前会議 (le conseil du Roi) で取りやめることが決議された[1]。また、サラン=レ=バンの谷あいに鹹水製造所 (bâtiment de graduation) を建てることも不可能になった。
建造と決定
クロード・ニコラ・ルドゥは1771年9月20日に、ルイ15世から、ロレーヌとフランシュ=コンテの製塩所の監視官 (Commissaire aux salines de Lorraine et de Franche-Comté) に任命された。1773年には、デュ・バリー夫人の後押しで王立建築アカデミー (l'Académie royale d'architecture) の会員にも推挙された。彼は既に徴税請負事務局の建築家だったこともあり、「王室建築家」 (Architecte du Roi) の称号を手に入れることができた[2]。そうして、アル=ケ=スナンの製塩所の建築計画は、ルドゥに委ねられたのである。
彼は監視官としてフランス東部の様々な製塩所を検視していた。それを通じて、彼は能率的な工場を思い描いていたので、実はルイ15世から計画を委託されるよりも早く、最初の計画案を練っていたのである。その計画案は、他の製塩所、特にロン=ル=ソーニエやサラン=レ=バンのものに触発されていた。
最初の計画
国王から委託されるより先に、ルドゥは最初の製塩所の計画を立てていた。しかし、その時点では、どこに建てるのかなどは一切考慮されていなかったため、彼はその計画が含む難点などを煮詰めることがないまま放置していたが、この計画は1774年4月にルイ15世に提出された[3]。
この計画は非常に野心的かつ革新的なものであった。ルドゥは厳格に幾何学的な設計を適用した。まず、中心に巨大な正方形の広場を作り、これを壁で囲む。その周りに単一の様式の様々な建物を配し、互に柱廊で結ぶ。そして作業の円滑化のために、広場を回廊で斜めに仕切り、八角形にする(図面参照)。建物には多くの円柱が用いられ、回廊には144本のドーリア式円柱が用いられていた。
計画では、さらに中央の四角い広場は製塩所の燃料用の薪の貯蔵に用いられ、各隅には四角い三階建ての離れがあった。それらには守衛室、礼拝堂、パン屋など、製塩所の生活に必要な機能が備わっていた。ほかウイングには蹄鉄工や樽工の作業場があり、奥には工場 (fabrique) があった。また、被雇用者たちに金銭的なものとは別のフォローとしての役割を持つ庭園があり、盗難防止用の頑強な外壁がめぐらされていた[4]。
これは壮大豪華な計画であったが、それがかえって計画の挫折に結びついた。当時の産業建築物にこれほど大規模なものはなかったので、ルドゥの同時代人は驚いたし、国王は宮殿や寺院でもないのに円柱を配していることなどに疑問を呈し、計画を拒否した。さらに、当時は礼拝堂を隅に配置することはけしからぬことであると見なされていた。後にルドゥもこの計画を自己批判した[2]。
計画上の平面図は全体的に病院、修道院、大農場など、古典的な共同体住環境をトレースしたものであった。他方で、四角に区切られた計画図は、古代ローマの建築家 Vitruve による古代建築以来の欠点を持っていた。それはつまり火事が広がりやすいこと、相対的に不衛生になること、中庭が必然的に日陰になってしまうことなどである。この計画が地理的・地質的な制約を考慮していないことも批判材料となった。
公的な決定
新しい製塩所を建設するということは、1773年4月29日に決議された[2]。建設予定地は、徴税請負事務局の監督下にある技術委員会によって決定された。その予定地となったのが、旧アルク村と旧スナン村の間(現在両村は合併してアル=ケ=スナン)である。ここが選ばれた理由はいくつかある。まずは、平地であり、ルー (Loue) や4万アルパン以上の広さを持つショーの森に近いことである。次に、大陸の中央部に位置し、ドール運河で地中海と連絡しており、ライン川を通れば北海やアントウェルペン湾に出られる交通の便のよさもある。加えて、当時スイスの塩需要が大きかったため、この国に近かったことも要因となった。計画では年間6万トンの塩生産を見込んでいた[5]。
同じ年に、王は利益を求めて、« Manutention générale des Salines » にジャン=ルー・モンクラール (Jean-Roux Monclar) を中心とする企業家集団を加え、彼らに24年間の使用許可を与えた。モンクラールは収益を意識していたために、ルドゥの最初の計画を拒否した[5]。国王によって認可されることになる建設計画は、製塩所の資金調達と建設を、使用許可も込みでモンクラールに委ねたのである。ルドゥは最初の計画案とは全く異なる第二案を提示することで面目を保った。
ルイ15世は、崩御(1774年5月10日)の直前の同年4月27日にこの計画を認可した。10月28日には Trudaine によって計画に署名がなされた。
建設
建設用地の取得と工事は程なく始まった。しかし、製塩所の建設状況がどのようなものであったかを、現存する古文書類から詳細に窺い知ることは出来ない。大要は以下の如くである。
礎石は聖土曜日であった1775年4月15日の式典で置かれ、工事は1779年まで続いた。ゆえに当時の慣例からすれば、大建造物 (le gros œuvre) と土台は前もって出来ていたのだろう。大建造物は程なくして完成し、内装に未完成部分はあったものの、工場の最初の試運転は1778年秋から始まった。
モンクラールと徴税請負事務局の間で交わされた契約書にあるとおり、製塩所の経営は1779年に始まった[6]。周りの道路網は国立土木学校から派遣された若手研究員たちによって研究され、アルク村とスナン村をつなぐ道は、自由に使える労働力 (la main-d'œuvre corvéable à merci) によって石が敷き詰められた。さらに、このルートは、スイス方面への出口を保証する重要なものでもあった。企業家モンクラールは、冬の間は製塩所の土木工事夫を土木工事に従事させた。徴税請負官オードリーによれば、支出は1778年以前に見積もられていたものの2倍に上ったという[7]。
建築物
塩水用暗渠
サラン=レ=バンの井戸から « petites eaux » を製塩所に引き入れるために、導管が作られた。これはフュリウーズやルーの道筋に沿って 21 km にわたって続く、もみの木で出来た運河であった。これは時間の経過による劣化や凍結、盗難などの対策として、地下に埋設されていた。さらに、より安全を保つために暗渠に沿って10箇所に守衛の詰め所が置かれていた。これは同時にいわば「塩税吏の道」を形成するもので、詰め所ごとに塩水の流量と濃度が測定され、結果は土曜日ごとに製塩所に送られた。塩税吏たちは「偽塩商人」と揶揄されていた盗人たちにも対応する必要があった。彼らは塩を盗むために暗渠に穴を開けたりしていたのである[8]。
暗渠には高低差 143 m の傾斜が付けられていた。材料のもみの幹は中心が刳り貫かれており、はめ込みやすいように鉛筆状に先が尖らせてあった。はめ込みに際しては鉄の輪が併用され、しっかりとつながれていた。材料にもみが選ばれたのは、胴回りの太さと中心部が相対的に柔らかいことによる。こうして中心を刳り貫かれたもみは« bourneaux » と呼ばれていた。
絶えず工事が行われていたにもかかわらず、たくさんの割れ目が存在し、多くの塩水が流失した。その量はおよそ 30 % にのぼったと見積もられている。つまり、毎日 135,000 L の塩水がサランから送られていたが、その無視できない量が失われていたのである。1788年からは暗渠は木製から鋳鉄製に替えられた[9]。今日でも、サラン方面から数えて2番目の詰め所であるプティット・ショーミエールは存在している。
建物
鹹水製造所と貯水槽
鹹水製造所 (bâtiment de graduation) は1920年に壊された。建設当時は塩水を蒸発させて塩を集めるための建物だった。当時は木製の大きな骨組みで、全長は 496 m 、高さは 7 m で、風が通るようになっていた。5mの高さのところに中空のパイプがあり、運ばれてきた塩水が流れ込むようになっていた。蒸発の時には風通しの良さがそれを後押しした。塩水は軽く傾斜をつけた溝付きのもみの厚板の上を流れて集められるようになっており、鹹水の濃度を高めるために、この作業が何度も繰り返された。その上で、鹹水は深さ 5 m 、容積 20万 L の水槽に集められた。この水槽は2000 m3 のカバーで覆われ、監視所が併設されていた。
その他の建物
- 製塩所長宅 (La maison du directeur)
- 塩税事務所 (Les bâtiments des commis et de la gabelle)
- 守衛の詰め所
- 厩舎
- 蹄鉄工場
- 樽工場
- 庭園
建築様式など
ルドゥは本来、所長宅を中心として周辺に工場や労働者住宅が配置されているような、直径 370 m の円形の都市計画を立てていたが、資金難などから半円状の建造物群で納得する形になった。
所長宅の正面は柱廊を備えた作りになっていて、アンドレーア・パッラーディオが手がけたヴィチェンツァ近郊の「ラ・ロトンダ」の様式を思い起こさせるものである。
フランス革命期に投獄されたルドゥは、製塩所を取り囲むショーの理想都市を思い浮かべていた。それは革命期以降に不遇をかこっていたルドゥの図面の中に見ることが出来る。
操業停止後の製塩所
製塩所は革命期以降も存続したが、その経営は、生産効率が当初予想を下回ったことから苦しいものとなった。加えて、鉄道で運ばれた海水由来の塩との競争にもさらされたことや、製塩所の原料供給元である井戸には不純物が多かったことなどもあって、1895年に閉鎖され、荒れていった。1918年には落雷が原因で所長宅と礼拝堂が火事に遭った。
こうした惨状に対し、1923年になると、製塩所を史跡にしようとする動きも出てきた。長い予備審査を経て、1926年に史跡委員会によって好意的な決定が下された。当時、製塩所を所有していたのは、東部製塩所組合 (société des Salines de l'Est) だったが、彼らはこの決定に冷淡だった。1926年4月29日には建物の一部がダイナマイトで爆破され、周辺の木々も伐られた。こうしたこともあって、1927年にはドゥー県が買い取り、1930年から修復も行われた。
第二次世界大戦中には軍隊の駐屯地などにもなったが、そんな中での1940年2月20日に史跡に加えられたことが官報で公示された。
その後も地元の芸術家、作家、ジャーナリストたちが、世論や当局の関心を集めるためにキャンペーンを行ったりした[10]。そして、1982年にはユネスコの世界遺産に登録された。
今日、施設は一般に公開されているが、そこには二つの展示館が存在している。ひとつは旧樽工場で、ここはルドゥー記念館 (le musée Ledoux) になっており、実現しなかったものの未来を先取りしていた数々の建築計画が、模型として展示されている。もうひとつは旧製塩工場群 (les bâtiments des sels) で、当時の姿を偲ぶ展示がされている。
世界遺産
1982年に「アル=ケ=スナンの王立製塩所」として世界遺産に登録された。2009年にサラン=レ=バンの大製塩所を加える形で拡大登録され、「サラン=レ=バンの大製塩所からアル=ケ=スナンの王立製塩所までの煎熬塩の生産」と改称された。これらはともに煎熬(せんごう。釜で塩水を煮詰めて塩を得ること)による製塩施設である。
ギャラリー
注
- ^ Jean-François Bergier, L'étonnante histoire des salines royales d'Arc-et-Senans, dans « Une histoire du sel », Office du livre, Fribourg, 1985, ISBN 2130378218
- ^ a b c Daniel Rabreau, Du sel et de l'utilité d'une saline royale, dans « La saline royale d'Arc-et-Senans; un monument industriel : allégorie des Lumières », Belin Herscher, Paris, 2002, ISBN 2701125588
- ^ Sefrioui A., Plans et projets pour la saline royale, dans « La Saline royale d'Arc-et-Senans », Éditions Scala, Paris, 2001, ISBN 2866562720
- ^ Architecture de production, dans « Ledoux », Anthony Vidler, Fernand Hazan, Paris, 1987, ISBN 2850251259
- ^ a b Jean-François Bergier, L'étonnante histoire des salines royales d'Arc-et-Senans, dans « Une histoire du sel », Office du livre, Fribourg, 1985, ISBN 2130378218
- ^ Daniel Rabreau, L'architecture du roi et les monuments du progrès, dans « Claude-Nicolas Ledoux », Éditions du patrimoine, Paris, 2005, ISBN 2858228469
- ^ Michel Galler, L'usine royale, dans Catalogue de l'exposition « Ledoux et Paris », Éditions Rotonde de la Vilette, Paris, 1979, ISBN 2-7299-0019-5
- ^ Les contrebandiers du sel, dans « Pays Comtois », novembre 2003 ,オンラインジャーナル
- ^ Acheminer l'eau, d'après le « Service éducatif de la saline » オンラインジャーナル
- ^ De l'utopie à la réalité, dans « La fabuleuse histoire du sel », André Besson, Collection Archives vivantes, éd. Cabédita, 1998, ISBN 2882952317
関連項目
- クロード・ニコラ・ルドゥー
- ショーの理想都市
- ショーの森
- ガベル
外部リンク
サラン=レ=バンの大製塩所
(アルケ-スナンの王立製塩所 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/08/11 18:54 UTC 版)
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サラン=レ=バンの大製塩所外観
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英名 | From the Great Saltworks of Salins-les-Bains to the Royal Saltworks of Arc-et-Senans, the production of open-pan salt | ||
仏名 | De la grande saline de Salins-les-Bains à la saline royale d'Arc-et-Senans, la production du sel ignigène | ||
面積 | 10.4800 ha(緩衝地域 584.9400 ha) | ||
登録区分 | 文化遺産 | ||
登録基準 | (1),(2),(4) | ||
登録年 | 1982年 | ||
拡張年 | 2009年 | ||
公式サイト | ユネスコ本部(英語) | ||
使用方法・表示 |
サラン=レ=バンの大製塩所は、フランスのジュラ県に残る産業遺産のひとつである。2002年にユネスコの世界遺産の暫定リストに掲載され、2009年に「アル=ケ=スナンの王立製塩所」を拡大登録する形で正式に世界遺産リストに登録された。
サラン=レ=バンの大製塩所は1966年以降市有財産となり、1978年からはフランシュ=コンテ技術・文化博物館群 (Musées des techniques et cultures comtoises) の一部をなしている。
歴史
サラン=レ=バンでは新石器時代から塩の採掘が行われており、市内には中世初期から製塩所が存在していた。中世には、「白い黄金」とされた塩を生み出す製塩所は、城壁に囲まれた市内の小都市というべきものを形成していた。
製塩所では今でも塩水が汲まれているが、これは地下で 1 L 当たり 330 g の塩を含むものであり、大西洋の海水の塩分濃度が 1 L あたり 80 g であることを考えると濃いといえる。
塩水はフュリウーズ川 (la rivière la Furieuse) に設置された水車を動力とするポンプで引かれ、貯水庫に蓄えられた後、かつては加熱が行われていた鍋に送られていた。そこで水分が蒸発させられ、塩が手に入ったのである。大きな熊手のような採集用具を使って鍋で行う採塩作業は、鍋周辺がかなりの暑さになることから、非常に過酷な作業だった。
サランの製塩所群の地下で汲み出された塩水は、昔はアル=ケ=スナンの王立製塩所にも送られていた。アル=ケ=スナンには自前の塩水脈がなかったためで、21 km にわたる塩水用暗渠が設置されていた。
製塩所群はほとんど絶え間なく活動を続けていたが、1962年に閉鎖され、4年後に市有財産となった。
今日では、地上も地下も巨大な展示場となっており、蒸留鍋の部屋や塩の貯蔵室、かつて使われていた大井戸の残る建物などがある。塩水を火で蒸留するための作業所の遺構は、知られている中で特に古い部類に属しており、塩水を引くことから始まる製塩技術の7000年にも及ぶ歴史を示すものである。
今日の製塩所は、製塩に適した塩水の採取から製塩作業に至る過程を知る上での優れた題材であり、年間50000人近くの観光客を受け入れている。
製塩所には地下にも記念碑的な道が残っており、積み重ねられてきた歴史がどれほどの規模であるかを伝えている。これらの地下道には、今も機能している塩水の汲み上げ機構が存在する。汲み出された塩水は、製塩作業を停止してからは、鉱泉施設で使われたり、冬場に道路の除雪作業で使われている。
世界遺産
2009年に「アル=ケ=スナンの王立製塩所」を拡大する形で、「サラン=レ=バンの大製塩所からアル=ケ=スナンの王立製塩所までの煎熬塩の生産」の一部として登録された。これらはともに煎熬(せんごう。釜で塩水を煮詰めて塩を得ること)による製塩施設である。
登録対象となった建造物は以下の3つである。
- アモンの井戸施設 (bâtiment du puits d'Amont)
- 塩の倉庫 (magasins à sel)
- 旧住居 (un ancien logement)
登録基準
この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター[1]からの翻訳、引用である)。
- (1) 人類の創造的才能を表現する傑作。
- (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
- (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
ただし、基準 (1), (2) はアル=ケ=スナンの王立製塩所の建築学的・都市計画的側面が評価されたもので、サラン=レ=バンの大製塩所は専ら (4) に該当するものとして拡大登録された。
登録名
世界遺産としての正式名は From the Great Saltworks of Salins-les-Bains to the Royal Saltworks of Arc-et-Senans, the production of open-pan salt(英語)、De la grande saline de Salins-les-Bains à la saline royale d'Arc-et-Senans, la production du sel ignigène(フランス語)である。
その日本語訳は、文献によって以下のような違いがある。
- 天日製塩施設、サラン-レ-バン大製塩所からアルケ-スナン王立製塩所まで(日本ユネスコ協会連盟)[1]
- サラン・レ・バン大製塩所からアルケ・スナン王立製塩所までの天日塩生産所(世界遺産アカデミー)[2]
- サラン・レ・バンの大製塩所からアルケスナンの王立製塩所までの開放式平釜製塩(古田陽久)[3]
- サラン・レ・バンの大製塩所からアルケスナンの王立製塩所(なるほど知図帳)[4]
英語名に使われているopen-pan saltとは、天日塩とは異なり、塩水を満たした大きな平釜を火で煮詰めることによって得る塩である[5]。フランス語名に使われている ignigène は仏和辞典などではまれにしか載っていない単語だが、『ロベール仏和大辞典』(小学館、1988年)には形容詞で「煎熬した」という語義と、sel ignigène で「煎熬塩」という熟語が掲載されている。
煎熬塩の生産施設を天日塩の施設として訳している世界遺産アカデミーや日本ユネスコ協会連盟は、この拡大登録に関する解説の中で、どのようなプロセスで製塩が行われたのかについて触れていない[1][2]。
ギャラリー
脚注
外部リンク
- Musées des techniques et cultures comtoises
- Les anciennes salines de Salins-les-Bains
- site personnel
文化遺産 | |
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アル=ケ=スナンの王立製塩所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/04/01 13:44 UTC 版)
「サラン=レ=バンの大製塩所からアル=ケ=スナンの王立製塩所までの煎熬塩の生産」の記事における「アル=ケ=スナンの王立製塩所」の解説
詳細は「アル=ケ=スナンの王立製塩所」を参照 アル=ケ=スナンの王立製塩所は、ドゥー県アル=ケ=スナン(フランス語版)(アルク=エ=スナン)に残る製塩施設であり、現に操業されていた製塩施設というだけでなく、クロード=ニコラ・ルドゥーの都市計画を伝える文化遺産でもある。 アル=ケ=スナンはもともとアルクとスナンという2つの村から成っていた。ここに製塩施設を建設する計画は1770年代に持ち上がった。1771年にフランシュ=コンテの製塩所総監督に就任していたルドゥーは、アル=ケ=スナンに製塩所を建設するにあたり、既存の製塩施設の視察や研究を行なった。アル=ケ=スナンが選ばれたのは、王領であるショーの森(フランス語版)が広がっており、薪の調達に不自由しなかったためである。実際、王立製塩所が建設されると、毎日12トンもの薪が消費され、30トンを超える塩が生産されることになる。 ショーの森は燃料には事欠かなかったが、肝心の塩水は産出しなかった。そのため、塩水の調達には、20km以上離れたサラン=レ=バンの塩井から導管を引くことになった。導管は当初は木製だったが、順次、鉄製に切り替えられていった。 1775年から1779年にかけて王立製塩所は建設されたが、生産される食塩に不純物が多かったことや、導管から漏れでた塩水が近隣の農地に被害をもたらしたことなどの不都合も多く、1895年には操業が停止された。 アル=ケ=スナンの王立製塩所は、経済面では期待された成果を収めることはできなかったが、ルドゥーが建設した先進的な産業建築としての価値を持っている。建造物群は監督官の邸宅を中心とする半円形をなしている。半円形の都市のすべてが完成したわけではなかったが、構想においては、監督官の邸宅の両脇に製塩作業場と燃料である木材倉庫、裏手に厩舎が配置され、その周囲の弧に沿って労働者の住宅・庭園、貯水池、並木道、桶職人や蹄鉄工のための建物などが設計されていた。ルドゥーは晩年の著書『芸術・習俗・法制との関係から考察された建築』において、監督官の邸宅を中心とする円形の理想都市の計画を示しており、アル=ケ=スナンの王立製塩所は、未完に終わった理想都市としばしば見なされている。ただし、これについては、1770年代の設計・建築当初にはなかった思想を後に投影させたものであって、当初から構想されていた円形都市が途中までしか建設されなかったのではなく、現に建設された都市をさらに構想の上で膨らませたものであろうとも指摘されている。
※この「アル=ケ=スナンの王立製塩所」の解説は、「サラン=レ=バンの大製塩所からアル=ケ=スナンの王立製塩所までの煎熬塩の生産」の解説の一部です。
「アル=ケ=スナンの王立製塩所」を含む「サラン=レ=バンの大製塩所からアル=ケ=スナンの王立製塩所までの煎熬塩の生産」の記事については、「サラン=レ=バンの大製塩所からアル=ケ=スナンの王立製塩所までの煎熬塩の生産」の概要を参照ください。
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