アメリカ合衆国での開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 07:03 UTC 版)
「計算機の歴史」の記事における「アメリカ合衆国での開発」の解説
1937年、クロード・シャノンはブール論理の概念と1対1に対応する電気回路が存在することを示した。そういった回路は後に論理回路と呼ばれるようになり、今ではデジタルコンピュータで必ず使用している。このMITでの修士論文で、リレーやスイッチを使ってブール論理の論理式を具現化できることを示した(同様の研究は日本においても1936年に中嶋章と榛沢正男により発表されている)。この論文が実用的なデジタル回路設計の基礎を築いた。ジョージ・スティビッツは1937年11月、ベル研究所で "Model K" と名付けたリレー式計算機を完成。ベル研究所は1938年後半にスティビッツによる計算機の研究開発プロジェクトを正式に始めさせた。1940年1月8日に完成した Complex Number Calculator は複素数の計算が可能だった。1940年9月11日、ダートマス大学で開催されたアメリカ数学会の学会で、テレタイプ端末をベル研究所にある計算機と電話回線でつなぎ、コマンドを送って計算結果を得るというデモンストレーションを行った。電話回線経由で遠隔から計算機を使った史上初の例である。ジョン・フォン・ノイマン、ジョン・モークリー、ノーバート・ウィーナーといった人々がこのデモンストレーションを目にしており、特にウィーナーはその思い出を後に文章にしている。 1939年、アイオワ州立大学のジョン・アタナソフとクリフォード・E・ベリーがアタナソフ&ベリー・コンピュータ (ABC) を開発した。ABCは世界初の電子式デジタルコンピュータとされている。300個以上の真空管を使い、記憶装置として機械的に回転させたキャパシタを使っている。プログラムは不可能(単一機能)だが、真空管で加算器を構成したのはABCが世界初である。ENIACの発明者の1人ジョン・モークリーは1941年6月にABCに触れている。そのことが後のENIACの設計に影響したかどうかについては歴史家の間でも様々な意見がある。ABCは長らく忘れ去られていたが、ENIACなどの特許の有効性を争ったハネウェルとスペリーランドの裁判で、先行例として注目されるようになった。 1939年、IBMでは Harvard Mark I の開発が始まった。正式名称は Automatic Sequence Controlled Calculator。Mark I は汎用電気機械式計算機で、IBMが資金提供し、ハーバード大学のハワード・エイケンの指揮の下でIBMの技術者らが設計や製作を助けた。バベッジの解析機関の影響を受けた設計で、十進法を採用し、リレーのほかに歯車やロータリースイッチを記憶装置や演算装置に使っている。さん孔テープでプログラム可能で、並列に動作する演算装置を複数備えていた。後のバージョンでは複数のテープ読取装置を備え、条件によってどのテープを読み取って実行するかを制御できた。チューリング完全ではない。Mark I は1944年5月にハーバード大学に移され、運用を開始した。
※この「アメリカ合衆国での開発」の解説は、「計算機の歴史」の解説の一部です。
「アメリカ合衆国での開発」を含む「計算機の歴史」の記事については、「計算機の歴史」の概要を参照ください。
- アメリカ合衆国での開発のページへのリンク