リレー式計算機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 08:53 UTC 版)
以下で述べるFACOMの名の付いたリレー式計算機はプログラム制御方式である(という点ではコンピュータと言える)。プログラム制御方式であってもプログラム内蔵方式とするか否かは、具体的にどの程度メモリにプログラムを置けば「プログラム内蔵である」とするのかについて議論がある点だが、高橋秀俊によれば、リレー計算機でプログラム内蔵方式を採用したものは無い、とされている(プログラム内蔵方式の記事を参照)。情報処理学会のコンピュータ博物館ウェブサイトでは、FACOM 128Aを「プログラム非内蔵」としている。 また、日本ではコンピュータのことを電算機などと言うことがあり、「電算業務」といった形で電算と略しても使われているが、情報処理学会が歴史について調査した際に、学会誌『情報処理』に掲載された富士通における歴史を述べた記事によれば、このリレーによる計算機の時代に計算サービスを開始した際に(「電子」じゃないけど、ということで)使い始めた言葉であろう、と書かれている。 開発の経緯 富士通信機製造では、1935年(昭和10年)頃から、リレーを使った装置の応用として演算回路を試作していた。1943年(昭和18年)には海軍からの委託で暗号解読装置を製作している(これらは塩川新助、高田重男、青山鉄夫らによる)。なお、中嶋やシャノンにより、論理回路の理論が始まったのが、1930年代末である。 戦後は、戦災で焼失した東京都の統計課のIBM製統計会計機を代替する、電気式分類集計機「山下式画線統計機」を山下英男の指導の下に製作、1951年5月に納入した(同機は総理府統計局には日本電気から納入されている)。 1952年、東証が機械化を検討し、山下を通して富士通に、リレーによる株式取引高精算装置の開発が打診された。尾見半左右、小林大祐の下で池田敏雄、山本卓眞らが開発し、1953年3月に試作機が完成した。受注には至らなかったが、FACOMに与えた影響は大きい。 株式取引高精算用計算機が不採用だったことについては、山本卓眞によれば入出力が電信用紙テープだったためパンチカードマシンより遅かった、動作が不安定だった、という2点を挙げている。動作を不安定にしたエラーの原因は後に接触不良と判明し、FACOM 100ではこの経験を生かし自己検査回路により信頼性を向上し成功させた。
※この「リレー式計算機」の解説は、「FACOM」の解説の一部です。
「リレー式計算機」を含む「FACOM」の記事については、「FACOM」の概要を参照ください。
- リレー式計算機のページへのリンク