アウレリウスの教師達
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「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」の記事における「アウレリウスの教師達」の解説
136年に成人の儀式を終えたアウレリウスは直ちに弁論術の教育を始めたと考えられている。彼は三人のギリシャ人学者と一人のラテン人学者を教師としたが、これは当時のローマにおけるギリシャ文化の勢威を示している 自省録にもそうした影響が見て取れる箇所がある。 その中でも最も重用されていた人物で、アテネ随一の財産家でもあった弁護士ヘロデ・アッティクスの存在は常に論争の的であった。ヘロデは癇癪持ちで神経質な性格をしており、また傲慢な態度で振る舞って同じアテネ人からも嫌われていた。加えて豪勢な生活を好んだヘロデはストア主義を否定し、ギリシャ哲学の権威自体も軽視していた。彼はストア派の唱える禁欲を愚かな発想と一蹴して「鈍感で無気力な人生に何の価値がある」と嘲笑した。アウレリウスはヘロデから弁論術を学び続けたが、やはり個人的には反りが合わなかったらしく「自省録」にヘロデについては一切言及されていない。 一方、唯一のラテン人家庭教師であったマルクス・コルネリウス・フロントという人物とはとても親密な間柄となった。フロントはマルクス・トゥッリウス・キケロに次ぐ才人と評され、ラテン語の弁論術と修辞学に関して完璧な知識を持っていた。アウレリウスとフロントの往復書簡は大部分が現存しており、アウレリウスはフロントに以下の言葉を贈っている。「親愛なる我が師よ、さようなら。例え何処に居ようとも、貴方への愛と喜びに変わるところはありません。私は貴方を愛しています。なのに何故貴方は此処に居ないのか。」 アウレリウスはフロントと家族ぐるみの付き合いすら持ち、彼の娘と手紙を交わしている。別の手紙では「弁論術の全てを貴方から学べるよう、神に祈りを捧げた」と記されている。フロントは病弱な人物でよく体調を崩して療養する事があり、アウレリウスが書き送った手紙の4分の1は病気を気遣う内容であった。アウレリウスは不幸な師と同じ病が自らに降りかかることすら望んだという。 フロントはアウレリウスに弁論術を教える傍ら弁護士としての活動を続けていたが、ある裁判でヘロデと争う事になった。アウレリウスはフロントに好意を持っていたが、助言という形でヘロデとも諍いをしないように求めた。フロントはアウレリウスがヘロデもまた友として扱った事に感心したが、この一件ばかりは自分も引き下がれないと拒否したという。裁判の結果は記録が残っていない。 26歳の時、アウレリウスはいかに陪審員を説得するかに重きを置いているローマの司法制度に不満を感じるようになっていた。フロントへの手紙で「弁護士の仕事は裁判官の隣で欠伸をするだけと呼ばれないようにすべきです」と書き送っている。アウレリウスは様々な場面を想定して行われる問答や仮想議論に熱意を失い、弁論術の用いる詭弁や言葉遊びの要素を不誠実だと批判したが、フロントには受け入れてもらえず叱責されている。フロントはアウレリウスが哲学に傾倒する事を窘める発言をしている。フロントもまたヘロデと同じくギリシャ哲学を軽んじていたのである。彼は哲学を「必要な知識を得ることに飽きた若者が傾倒する学問」と形容した上で、アウレリウスが弁論術の修行を怠る事を嘆く手紙を残している。弁論術を学ばなくなってからもアウレリウスはフロントと親密だったが、良心は咎めていたようである。 アウレリウスは次第に興味を哲学へと移していたが、弁論学も直向に学んでいたことに違いは無い。彼の青年時代の教育については、「体を大事にしなかった」こと以外に批判すべき点は見当たらない。 ストア派については上述の通りアポロニウスの存在が大きいが、ユニウス・ルスティクスも大きな影響を与えていた彼はフロントより年上のストア派哲学者で、強権的なドミティアヌス帝の治世に反対して処刑された元老議員アウレリウス・ルスティクスの末裔でもあった。彼はキケロの再来と呼ばれたフロントに対して、暴君ネロを窘めて自殺させられた哲学者ルキウス・アンナエウス・セネカの再来と呼ばれていた。アウレリウスはルティクスを最良の師と呼び、生涯尊敬を続けることとなる。
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