がん告知と晩年
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1992年(平成4年)7月22日に過去のヒット曲にハウスサウンドやラップ、レゲエを導入してリメイクしたアルバム『オマンタせしました! HARUO IN DANCE BEAT』を発売。11月21日に発売したシングル「ジャン・ナイト・じゃん(フジテレビ系深夜アニメ『スーパーヅガン』ED曲) / Ika-Never」でもラップに挑戦した。同年、ゲームソフト『ヨッシーのクッキー』のCMでレゲエにアレンジされた「炭坑節」の替え歌を披露するなど、この時69歳という年齢ながら、ジャンルに囚われない精力的な音楽活動を展開し、抜群のリズム感とともに実力を示した。 同年の7月23日、新宿の日清パワーステーションで開催されたアルバム発売記念のライブイベント"HARUO IN DANCE BEAT"では電気グルーヴと共演、また12月にはジュリアナ東京でもライブを開催している。その柔軟な姿勢は若年層にも受け入れられ、ライブでは若い観客が三波の歌声に狂喜乱舞した。 1994年(平成6年)1月、体調を崩して訪れた東京都内の病院で前立腺癌と診断された。発見された時点で既に早期ではなく、当時マネージャーだった娘・美夕紀が、父・三波と母を前に病名を告げた。三波は動揺することもなく穏やかに「仕事をしながら病気と闘っていきましょう」と家族に語ったという。また、「完ぺきな形で歌を歌っていきたい」との強い思いから死去するまで家族以外には一切病名を隠し通し、抗がん剤の影響で頭髪が薄くなると、植毛を施して病を感じさせない変わらぬ容姿で歌手活動を継続した。病名告知以後、8月には東京・歌舞伎座にて『芸道55周年記念リサイタル』を開催。また、長編歌謡浪曲の集大成として制作していた2時間25分の組曲アルバム『平家物語』(1994年)を構想10年執筆6年という歳月をかけた上で無事完成させる。この「平家物語」で、第36回日本レコード大賞企画賞を受賞し、この年の仕事を無事に乗り切ったことでその後の闘病生活に自信を持ったという。また、この年には勲四等旭日小綬章を受章している。 1997年(平成9年)には永六輔作詞の「明日咲くつぼみに」を発表。これ以降、永と親交を深め、永の番組やトークイベントに参加したり、老人ホームへの慰問などの活動にも尽力した。 1998年(平成10年)8月6日には、さだまさしが平和への祈念を込め、長崎で開催した無料コンサート、「1998 夏 長崎から さだまさし」にゲスト出演し、「この山は、この川は」と「世界の国からこんにちは」、「大利根無情」の3曲を歌った。体調悪化のなかであったが、大利根無情においては晩年期の歌唱キーよりも半音高い往年のキーで見事に歌い上げ、観衆の拍手喝采を浴びた。後年、NHKで放映された三波の追悼番組『三波春夫さん~日本の歌をありがとう~』の中でさだは、「失礼かもしれないけれども、御見それしましたと言いたい。あのお歳で、あれだけの観客をひきつけるオーラ…。やはりライブのできるシンガーは本物なんです。私たちシンガーは表現する上で迷いの中で生きているんですよ。しかし、98年の三波さんのステージは、淡々と私はこれです! 私、ここです! っていうものを感じて、私は非常に好きだったな…」と思い出を語った。この時の交流がきっかけとなり、1999年6月23日に発売された、さだのアルバム『季節の栖』では、さだの依頼を受け、収録曲の作詞を担当している〈「星座(ほし)の名前 」〉。 1990年代以降、自らのシベリア抑留体験を積極的に語るようになり、実際に当時の収容所跡地にも出向いて抑留生活の面影を辿り歩いた。2001年にはその様子を収録したドキュメンタリー番組が制作されている。
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