『魏志倭人伝』にみる倭人の習俗
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「倭人」の記事における「『魏志倭人伝』にみる倭人の習俗」の解説
「魏志倭人伝」も参照 3世紀末の280年から297年にかけて陳寿によって完成された『三国志』「魏書東夷伝」には、夫余・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・馬韓・辰韓・弁辰・倭人の9条が含まれる。倭人条には風俗・慣習について以下のように記されている。 男子は大人も子供も区別なく皆が顔と体に文様を描いている(「鯨面文身」)。夏王朝の少康の子が会稽に封じられた際に、このようにして蛟龍の害を防いだ。文身は巨大な魚や水に棲む怪物を寄せ付けないためである。諸国の文身はそれぞれに異なる。 古くから中国に詣で、使者は皆自らを大夫と称している。 その風俗(社会生活の意味)は乱れてはいない。 男子は皆頭をそって、頭には木綿をかぶり、その衣は横長でそれをただ束ね結わえて連ねて着るものでほとんど縫ってはいない。女子は髪を伸ばして髷をつくり、衣は一枚を被るようにその中央に穴をあけて頭を通して着る。 稲、紵麻を栽培し、桑で蚕を育てて絹を紡績し、糸や布を作る。 牛・馬・虎・豹・羊・鵲はいない。 兵器は矛・楯・木弓を用いる。木弓は下を短く上を長くし、竹の矢軸の矢は鉄製か骨製の矢じりを用いる。 有無するところ、儋耳、朱崖と同じ。 倭地は温暖。 生で食べ物を食べる。 人の死に際しては棺はあっても槨のない、土で塚をつくる。 人が死ぬと10日あまり、哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。喪主は激しく哭泣し、他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。 渡海して中国に詣でる際は常に一人を頭は櫛を通さず虱のいるまま衣服は汚れ放題、肉は食べず、婦人を近づけず、喪人のようにしておく。これの名を持衰という。もし途中で吉善があれば彼は他の人と共に生口や財物をねだることができ、もし疾病が発生したり暴害に遭えば、すなわち持衰が謹まなかったからだとしてこれを殺そうとする。 真珠や青玉を産出する。 山には丹がある。(植生についても述べられている。) 骨を焼き吉凶を占う(太占)。 集まりや座る順には父子男女の区別はない。 酒を嗜む。 長命で、百歳や九十、八十歳の者もいる。 女は慎み深い。 国の大人は妬まず、盗みもなく、諍いや訴訟も少ない。 法を犯す者は軽い者は妻子を没収し、重い者は門戸および宗族を没収する。 尊卑が初めから決まっていて、大臣たちは服することに納得している。 税を収奪する。邸(偉い人の広い居住屋敷)や閣(偉い人を招くための高い建物)といった豪華な建物がある。 下戸は大人と道路で遭遇するとためらって草へと入り、あらたまった言葉を聞くときにはひざまづいて両手は地につけて恭順を示す。 ここに記された文化の諸特徴が、南方的要素の強いことはしばしば指摘されるところであり、民俗学的、文化人類学的、考古学的ないし歴史学的な論考の資料として重視されることが少なくない。
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