『魏書』西域伝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/18 02:51 UTC 版)
『魏書』西域伝(散逸、『北史』西域伝から採録)悦般条によれば、『後漢書』によれば、知られている限り最後の匈奴の単于は91年に後漢・南匈奴連合軍に敗れて西方へ消え失せた、もしくは康居(烏孫の領域、現在のカザフスタン)へ移動した。また『魏書』によれば、彼らはさらに西へ向かったが、153年に現在のタシュケント付近で鮮卑に敗れた。これ以降の200年間、彼らに関する記録は一切残っていない。 もう一つ『魏書』について問題となっているのが、西域伝粟特条である。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}粟特国は、葱嶺の西に在り、かつての奄蔡であり、溫那沙ともいう。大澤(大きな湖)にのぞみ、康居の西北に在り、代から一萬六千里の距離にある。以前、匈奴が其の王を殺して其の国を領有し、忽倪という王まで三代を経ている。其の国の商人は先に多く涼土にやってきて販貨(交易)をして、姑臧を征服し、ことごとく捕虜とした。高宗の御代の初め、粟特王が使者を遣し身代金を求めてきたので、詔してこれを聞き入れた。それより後に朝献することはなかった。 —魏書西域伝粟特条 フリードリヒ・ヒルト (1909年)は「奄蔡」をアラン人、「粟特国」をヨルダネスがサダゲスと記したクリミア半島のスグダグに比定し、これらを匈奴が征服した記録と解釈し、これがヨーロッパ・フン族の最初の征服活動にあたると考えた。内田はヒルトの中国語の発音解釈の誤りを指摘しつつ、「匈奴の奄蔡征服」をフン族のアラン人征服を同一視する理論には賛同し、1953年にも『魏書』内の地理的記述などからこの説を肯定した。一方で、「粟特」をソグディアナに比定する反論もヒルトの後から出ていた。白鳥(1924年)やメンヒェン=ヘルフェン(1945年)は、産物の記述などから「粟特」をソグディアナと考え、征服者についても匈奴ではなくエフタルであるとし、榎もこれを支持している。榎は、粟特と奄蔡を結びつけたのは北魏の使節の誤解であり、粟特を支配したのはいわゆる匈奴ではなくヒオン(キオン)であると主張した。またメンヒェン=ヘルフェンは、『魏書』の該当箇所の大半は、後世の他の文献によって加筆されたものであったと主張した。これについてド・ラ・ヴァシエールは、『通典』のような中国の他の文献に『魏書』の問題個所の原典が引用されていることを指摘した。彼によれば、この記述は367年に匈奴がソグディアナを征服したという内容であり、これはペルシアやアルメニアの文献においてペルシア人とキオンの戦争に関する言及があるのと同じ時期であるという。サイナーはキオンとフン族の関連を明確に否定し、前者はテュルク系であると主張している。しかし2013年にはキム・ヒョンジンが「歴史家の間では、キオンとフン族が同一であることは一般的なコンセンサスとなっている」と述べている。5世紀中国に闞駰(中国語版)が書いた地理書である『十三国志』によれば、アラン人とソグド人がそれぞれ別の支配者 (ヨーロッパ・フン族とキオン)に従っていた。プーリーブランクらはこれを誤認と判断し、支配者は同一民族であったと考えている。
※この「『魏書』西域伝」の解説は、「フン族の起源」の解説の一部です。
「『魏書』西域伝」を含む「フン族の起源」の記事については、「フン族の起源」の概要を参照ください。
- 『魏書』西域伝のページへのリンク