『魏書』での逸話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/20 06:48 UTC 版)
『魏書』においては、張駿の治世は良い評価が為されていない。但し、『魏書』は全般的に他の国について酷評する傾向がある。 張駿は貪欲で飽く事を知らず、穀や帛を民に与えると、毎年その倍に当たる利息を収めさせ、収められなかった者には、田宅を買い取ってこれを償わせた。 張駿は身分不相応に驕り昂っており、民は労苦により怨みを抱いていた。ある時、石田の開墾に合議して、参軍索孚は「およそ治者という者は、天機に逆らわずに動き、地徳を破らずに動くものです。昔、后稷は百穀の種を蒔きましたが、磐石には耕しませんでした。禹は江河を渡るとき、流れに逆らいませんでした。今、石を田と為そうとしておりますが、土を運んで穀を植えても、計る所損としかならず、百石を尽く畝としても、収める所は三石にも満たないでしょう。安んじる事は出来ないと存じます」と諫めた。張駿はこれに激怒し、伊吾都尉に左遷して城から出した。 張軌が涼州を支配下に入れるに当たり、陰澹という人物が大いに貢献した。張駿の代になると陰氏の宗族は強盛となり、張駿はこれを危険視し、陰澹の弟である陰鑒に自殺を命じた。これにより、人心を大いに失ったという。張駿が病に罹ると、陰鑒が現れて祟りを為し、亡くなったという。
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