「フン族」=「匈奴」説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 21:53 UTC 版)
詳細は「フン族の起源」を参照 「フン族は紀元前3世紀頃に中国の北方に勢力があった匈奴の子孫であり、テュルク系民族がユーラシア大陸に広がった最初の端緒である」とする説がある。 フン=匈奴説は、先ずフランスのコレージュ・ド・フランス教授ジョゼフ・ド・ギーニュが『フン・トルコ・モーコ通史』(1756年)において、フン=北匈奴であるとした。 さらに、ミュンヘン大学のF・ヒルト博士は『ヴォルガフンネンと匈奴について』(1899年)において、『魏書』西域伝に見える「粟特国」を、アッティラの死後フンが退居したクリミア半島の「スグダク」に比定し、西史に見える「フンのアラン族征服」を、『魏書』西域伝の「匈奴の粟特国(古之奄蔡,一名温那沙)征服」に比定し、「フルナス(アッティラの末子)」を「忽倪」に比定した。また、『魏書』西域伝に見える「(粟特国の)別名は溫那沙」に注目したJ・マルカルトは『ブルガール王侯表中に於ける非スラブ的表現』(1910年)において、「溫那沙=Un-na-sa」の「-sa」の中に、オセット語の接尾語「ston」、アラン語の「stān」が存在すると論じ、「溫那沙」はアラン語またはペルシャ語の「Hūnastān」すなわち「フンの国」の音訳であるとし、ヒルト説を補強した。 一方、白鳥庫吉は「粟特国はスグダクではなくソグディアナであり、匈奴が粟特国を征服したとあるのは、フンがアランを征服したのではなく、フンがソグディアナを征服した記述である」と反論している。[要出典] また、フン族の指導者たちの名はテュルク諸語で表されているとされているとした。 これらの学説の論拠は史書の記録、国名の類似、墓相・装飾品の類似などである。研究者は「匈奴」の当時の発音が「フンナ」もしくは「ヒュンナ、キョウナ」など、フンとよく似た音である事から(匈奴#読みを参照)、また後漢が北匈奴を討ち(91年)残党が西走した記録から、また王名などの分析から言語学的にモンゴル系に属すると判断し得る、等々の根拠からフン=匈奴であるとしている。しかし、それ以外の言語学的資料が少なく言語面のみからの判断は不詳かもしれない。当時の北アジア・中央アジアに至る草原地帯の地域的気候変動が遊牧経済に打撃を与えたことが彼らの大移動の要因になっているとする説もある。[要出典] 多くの学者はフン族と匈奴の関連性について、肯定的に捉えつつも断定はしていない。遊牧民の集団は血統を重視するため首長家の婚姻や政治的連合によっても主要な中枢集団の構成要素は容易に変動しないが、フン族集団全体としては匈奴の西走集団と系譜的に繋がるとしても、これを中国北方から西走した匈奴国家の部民が元の体制を維持したまま西方にフン族として登場した可能性には疑問がある。[要出典]
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