『真田太平記』での生涯
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「樋口角兵衛」の記事における「『真田太平記』での生涯」の解説
初陣では信幸の命に背き突進するも、その武勇で信幸の命を救う。しかし、山手殿と久野の会話で昌幸の側室・お徳が身ごもったことから信幸の肩身が狭くなると思い、真田庄のお徳を襲うが信幸から連絡を受けた幸村に阻止され、砥石城の岩牢に入れられる。そこで久野から信幸、幸村と同じ昌幸の子であることを告げられ、腹痛を装い脱走する。探索に出かけた草の者(忍び)を殺害し、同じく探索に出かけた幸村を襲うが、お江により阻止される。 第1次上田城の戦いの前に、真田家の危機と知り帰参する。しかし、久々に上田に戻った幸村に酒を飲んで絡み、豊臣秀吉から拝領の刀を所望する。北条攻めの時は幸村の命により危機に陥った信幸を救出する。朝鮮出兵の時は肥前名護屋に出陣を命じられた真田家であるが、角兵衛は留守居を命じられる。それでも参陣したいという気持ちを抑えきれずに名護屋の真田家の陣所に駆けつけるが、昌幸、信幸らに叱責される。ふて腐れているところを、甲賀山中忍びの杉坂重五郎に誘われ、元締めの山中大和守に対面、山中忍びの者と共に真田庄に戻る。その後、真田の草の者の頭領・壺谷又五郎の進言により沼田の真田分家に預けられることになる。しかし、鈴木右近が「(真田)本家に角兵衛が情報を知らせているのではないか」と信幸と話をしているのを聞き右近を襲撃するが、逆に顔に傷を負う。 関ヶ原の戦いでは、真田本家と共に上田城の戦いに参戦する。その後信幸を討ちに砥石城に向かうが信幸に取り押さえられ説教される。戦後は信之に仕えるよう勧める昌幸に高野山へ連れて行ってくれるよう頼み、九度山へ同道する。しかし、そこでは鬱屈した生活を送り、昌幸が倒れた時幸村に叱責されたため九度山を出奔し、家康上洛の警護のために設けられた重五郎の忍び小屋に赴く。そこで山中忍びと奥村弥五兵衛、お江の戦いに遭遇、弥五兵衛の今わの際にも居合わす。その後上田の信之の下に姿を現し、再度信之に仕えたい旨を告げ、信之から50石で仕えるようにと言われる。だが山中忍びに通じており、威光寺の慈海から再び九度山に行き幸村を監視し、いざとなれば討ち取るよう唆される。幸村は角兵衛の不審な動きをお江の報により知っていたが角兵衛の願いにより再び仕えることを許す。その後も山中忍びの小弥太を通じて幸村入城の報を知らせるも、草の者の向井佐助により阻止される。そしていざ大坂入城の際には酒に眠り薬を仕込まれ、その隙に幸村達が九度山を退去するのを許してしまう。その後、慈海の勧めもあり大坂の幸村の元を訪れる。角兵衛は幸村から再度参陣を許され、真田丸での戦いでも活躍する。夏の陣の前には信之の元に帰るよう言われるが、共に戦うことを誓う。戦いのさなか幸村は自害したが自身は慈海と伴長信に助けられる。 慈海らの口利きにより尾張徳川家に仕えるが、人を斬り出奔、上田城にいる母・久野の元に戻る。病床の母・久野から、実の父は昌幸でも樋口下総守でもなく武田家の若侍・小畑亀之助であることを聞かされた後その最期を看取った。家老の小山田壱岐守が眼病を患った際には唯一残っていた左目を献上しようとし、小山田の家老に取り押さえられる際にはかつての狂気の姿を見せたが、その後おとなしくなり信之の命により妻をめとり一子角太郎を儲け、真田家では150石を与えられ平穏な日々を送った後病死する。 ドラマと角兵衛狂乱図では、久野の元に戻ってからの展開が異なる。矢沢頼康から真田家取り潰しのために自分を尾張徳川家に仕えさせ、頃合いを見て刃傷沙汰を起こさせて上田に戻らせたことを聞かされる。母から原作のとおり出生の秘密を聞かされた後全てを悟り、自分の所行が真田家に迷惑をかけ続けてきたことを顧みて恥じた角兵衛は、自らの自害が最初で最後の奉公であると信之に遺書を残して自害した。久野は角兵衛の死に衝撃を受け、そのまま息を引き取る。
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